。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が姨夫《いふ》春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期《えんりうき》の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
 此年九月|朔《ついたち》に吉田|篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《くわうとん》が歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに遑《いとま》がなかつた。わたくしが篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上|蘭台《らんたい》の門に井上|金峨《きんが》を出し、金峨の門に此篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田|鵬斎《ぼうさい》の如く、篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]と偕《とも》に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋|故《ふる》きが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以《ゆゑん》である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。
 此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園《みその》道英の女《ぢよ》淳《じゆん》を子婦《よめ》に取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。
 此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。
 寛政十一年に狩谷氏で※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古《はうこ》が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門を襲《つ》いだかとおもふ。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家世には不明な事が頗る多い。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生父高橋|高敏《かうびん》は通称|与総次《よそうじ》であつた。そして別号を麦雨《ばくう》と云つた。これは蘭軒の子で所謂《いはゆる》「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女《むすめ》であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
 高敏の家業は、曾孫三|市《いち》さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆|是《ぜ》であるかも知れない。古衣《ふるぎ》を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑《しばら》く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
 此年二月二十二日に御園氏|淳《じゆん》が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後|真《まこと》に屏禁《へいきん》せられる一年前の事である。
 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。

     その二十

 寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳《つまびらか》にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎《つね》に曾《かつ》て山陽を舎《やど》したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅《げきりよ》の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦《かく》れたる蘭軒の裔《すゑ》が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此《かく》の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥《しりぞ》ける。わた
前へ 次へ
全284ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング