加へて、遼豕《れうし》の誚《そしり》を甘受することとしよう。病源候論は隋の煬帝《やうだい》の大業六年の撰である。作者は或は巣元方《さうげんはう》だとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事に与《あづか》つたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書が※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]印《もいん》頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本が重刻《ちようこく》せられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆|曲直瀬《まなせ》の所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好し有無《いうむ》相補ふのであつた。
 伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。

     その十八

 山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳の隆升軒信階《りゆうしようけんのぶしな》が膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田|椿庭《ちんてい》は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。
 そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。「一度大処へ出で、当世の才俊と被呼《よばれ》候者共と勝負を決し申度」と云ひ、「四方を靡せ申度」と云つてゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。
 少《わか》い彼蘭軒が少い此山陽をして、首《かうべ》を俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詫異《たい》せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。
 山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。
 わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身を※[#「宀/眞」、第3水準1−47−57]《お》いたことであらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も亦養父三右衛門|保古《はうこ》に事《つか》へてゐたことであらう。墓誌には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏を嗣《つ》いだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽を舎《やど》した二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の少時|奈何《いか》に保古に遇せられたかは、わたくしの詳《つまびらか》にせざる所であるが、想ふに保古は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業に染指《せんし》してゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。
 洋人の諺に「雨から霤《あまだれ》へ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かの宋槧本《そうざんぼん》を写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝを可笑《をか》しくおもふ。

     その十九

 寛政十年四月に山陽は江戸を去つた
前へ 次へ
全284ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング