くしの目中《もくちゆう》の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下《しも》には居らぬのである。
山陽が広島杉木小路の家を奔《はし》つたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎|惟清《これきよ》の弟伝五郎|惟宣《これのぶ》が歿したので、梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》は山陽をくやみに遣つた。山陽は従祖祖父《じゆうそそふ》の家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。素《もと》正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡《みつきごほり》三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原に遷《うつ》つた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は面《まのあた》り未亡人としての梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]をも見た人であつたさうである。これも亦彼の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が生家の職業と同じく或は二説皆|是《ぜ》であるかも知れない。
山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。
此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。
次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所の※[#「くさかんむり/姦」、7巻−40−下−15]斎《かんさい》詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支|辛酉《しんいう》が最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載に上《のぼ》つてをらぬのに、此詩集が偶《たま/\》存してゐて、わたくしに暗中|燈《ともしび》を得た念をなさしむるのである。
詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三|頁《けつ》の一巻をなしてゐる。蠧蝕《としよく》は極て少い。蔵※[#「去/廾」、7巻−41−上−6]者《ざうきよしや》は富士川游さんである。
巻首第一行に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−41−上−8]斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏は枳園《きゑん》である。毎半葉十行、行二十二字である。
集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初|頁《けつ》より二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯|椶軒正精《そうけんまさきよ》の朱書である。間《まゝ》菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。
その二十一
わたくしは此に少しく蘭軒の名字《めいじ》に就いて插記することとする。それは引く所の詩集に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−41−下−4]《かん》の僻字《へきじ》が題してあるために、わたくしは既に剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]氏《きけつし》を煩し、又読者を驚したからである。
蘭軒は初め名は力信《りよくしん》字《あざな》は君悌《くんてい》、後名は信恬《しんてん》字は憺甫《たんほ》と云つた。信恬は「のぶさだ」と訓《よ》ませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。椶軒《そうけん》阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。
憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山の柬牘《かんどく》には水《すゐ》に従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしの饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。啻《たゞ》に柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本|箕山《きざん》さんが其藝備偉人伝の下巻《かくわん》に引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、頃日《このごろ》箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしに寄示《きし》してくれたのである。
別号は蘭軒を除く外、※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−11]斎《かんさい》と云ひ、都梁と云ひ、笑僊《せうせん》と云ひ、又|藐姑射《はこや》山人と云つた。※
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