蘭軒が此年文政六年に阿部|正精《まさきよ》に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
孔伝《くでん》の我国に存してゐたものには数本がある。年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である。享保年間に此種の一本が清商の手にわたつて、鮑廷博《はうていはく》の有に帰し、彼土《かのど》に於て飜刻せられた。次で林述斎は弘安本を活字に附して、逸存《いつぞん》叢書の中に収めた。
以上が阿部侯校刻前の孔伝の沿革である。然らば述斎の既に一たび刻したものを、棕軒侯は何故に再び刻したか。「林祭酒述斎先生。悲其正本遂堙滅。以弘安本活字刷印。収之於其所輯逸存叢書中。字画悉依旧。学者以※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]飫也。余閲其本。自有叢書辺格。故不得不換旧裁。亦不無遺憾焉。」阿部本は林本の旧裁を換へたのに慊《あきたら》ぬがために出でたのである。
孔伝は安国《あんごく》に出でたと否とを問はず、兎も角も隋代の古本である。蘭軒はこれを尊重して、喜んで阿部侯に代つて序文を草した。しかし蘭軒は孝経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
わたくしは上《かみ》に伊沢の家で毎旦孝経を誦《じゆ》するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂|石台本《せきたいぼん》である。此|重注石刻《ちようちゆうせきこく》は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の石台本が行はれた。
我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院|実隆《さねたか》の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池《やしろりんち》の校刻した本は是を底本としてゐる。
そこで狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定《ちようてい》に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。
その百五十四
わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下《しも》の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪《さいせう》の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
頼氏では此年三子又二郎が生れた。復《ふく》、字《あざな》は士剛《しかう》、号は支峰である。里恵《りゑ》の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾《いくばく》ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊《い》えたので、
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