丸山の阿部邸には一種|便安舒暢《べんあんじよちやう》の気象が満ちてゐたかとおもはれる。
 蘭軒には自家の「甲申元旦作」よりして外、別に「恭奉※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]元日即事瑤韻」の作があつた。初の一首に云く。「霞光旭影満東軒。臘酒初醒復椒尊。春意※[#「冫+熈」、第3水準1−14−55]々忘老至。懶身碌々任人論。烟軽山色青猶淡。節早梅花香已繁。尤喜吾公無疾病。聞鶯珠履渉林園。註云、客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職、而至冬大痊、幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣、為不乏矣、公日行渉為娯、故結末及之。」此詩には阿部侯の次韻があつて、福山の田中徳松さんが其書幅を蔵してゐる。「和伊沢信恬甲申元日韻。芙蓉積雪映西軒。恰是正元対椒尊。荏苒年光歓病瘉。尋常薬物任医論。一声青鳥啼方媚。幾点白梅花已繁。自値太平和楽日。間身依杖歩林園。」是は梅田覚太郎さんが写して贈つたのである。蘭軒原作の註は前《さき》に正精の請罷《せいひ》の事を言ふに当つて、已に一たび節録したが、今此に全文を挙げた。後の一首に云く。「標格高如千丈松。儼然相対玉芙蓉。歌兼白雪添堂潔。毫引瑞烟映桷※[#「丹+彡」、第3水準1−84−29]。竹色経寒猶勁直。梅花得雨自温恭。昇平方是宜游予。満囿春風供散※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]。」憾《うら》むらくはわたくしは未だ阿部侯の原唱を見ない。
 菅茶山の歳首の詩は、一家の私事の外に出でなかつた。「元日得頼千祺書、二日得漆谷老人詩。鳥語嚶々柳挂糸。春来両日已堪嬉。更忻此歳多佳事。昨得韓書今白詩。」千|祺《き》が杏坪《きやうへい》の字なるは註することを須《もち》ゐぬであらう。漆谷《しつこく》は市河三陽、小野節二家の説を聞くに、後藤氏、名は苟簡《こうかん》、字は子易《しえき》、一|字《じ》は田夫《でんふ》、又木斎と号した。北条霞亭の尺牘に拠るに、通称は弥之助である。讚岐の商家に生れ、屋号を油屋と云ふ。前年備後に来て、茶山と親善であつたことは、後者の癸未以後の詩に徴して知られる。
 茶山は此正月二日の詩に於て、単に家事のみを語つてゐるが、別に新年の五律があつて、「藩政俗差遷」と云ひ、又「救荒人忘旱」とも云つてゐる。前年は備後が凶歉《きようけん》であつた。

     その百五十五

 蘭軒は此年文政七年に春の詩四首を得た。前に載せた元日の二首の次には「早春偶成」と例の「豆日草堂集」とがある。わたくしは唯此に由つて蘭軒が甲申の正月元日にも又友を会して詩を賦したことを知るのみである。
 神辺《かんなべ》では菅茶山が人日《じんじつ》に藩士数人を集《つど》へて詩を賦した。「客迎英俊是人日、暦入春韶徒馬齢」の一聯がある。茶山の春初の詩は頗多い。前に出した阿部正精の辞職の詩に次韻した九首も其中にある。
 正月十九日に正精は丸山より小川町の本邸に徙《うつ》つた。蘭軒は旧に依つて丸山に留まつた。
 三月十六日には、勤向覚書に下《しも》の記事がある。「若殿様御額直御袖留為御祝儀、両殿様え組合目録を以て御肴一種づつ奉差上候。」若殿様は寛三郎|正寧《まさやす》である。
 四月には「首夏近巷買宅、以代小墅」の詩がある。「巷東小築別開園。樹接隣叢緑影繁。半日清間纔領得。紅塵場裏亦桃源。」家計に些《ちと》の余裕があつたものか。宅を買ふと云ふより見れば、阿部邸の外の町家《まちや》であらう。
 蘭軒は此夏|啻《たゞ》に別宅を設けたばかりでなく、避暑の旅をもしたらしい。その何《いづ》れの地に往つたかは、今考ふることが出来ぬが、「山館避暑」、「門外追涼」の二詩は蘭軒の某山中にあつたことを証する。「山館避暑。行追碧澗入山逕。垂柳門前有小橋。素練一条懸瀑水。緑天十畝植芭蕉。竹窓安硯池常沢。苔石煮茶鼎忽潮。即是羲皇人不遠。松風無復点塵飄。門外追涼。烟暮山光遠。月升樹影長。新涼身自快。迂路歩相忘。虫語莎叢寂。鷺驚荷沼香。時逢村女子。数隊踏歌行。」門外の山館門外なることは疑を容れない。わたくしの二詩を併せ録する所以《ゆゑん》である。
 わたくしは此より月日不詳の夏の詩の遺れるを拾はうとおもふ。しかし勤向覚書に、これに先《さきだ》つて書すべき一条がある。それは嫡子榛軒が父に賜はつた服を著ることを許された事である。「五月三日左之願書付、相触流玄順を以、大御目付稲生伝右衛門殿え差出候処、今日角右衛門殿差出され候処、御受取被置、同七日願之通勝手次第と被仰付候。口上之覚。私拝領仕候御紋付類、悴良安え著用為仕度奉願上候以上。五月三日。伊沢辞安。但糊入半切認、上包半紙折懸、上に名。」
 集中には夏の詩が凡《おほよそ》六首ある。其中別宅の事を言ふ一首と避暑の事を言ふ二首とは既に上《かみ》に見えてゐる。剰《あま》す
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