語があるさうである。当時懐之は年|甫《はじめ》て十二であつた。按ずるに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は識語を作るに当つて名《めい》を其子に藉りたのであらう。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が蚤《はや》く懐之に其古泉癖を伝へたことも、亦疑を容れない。此年十四歳の柏軒が古泉を愛するに至つたのは、恐くは懐之等が導誘したためであらう。懐之は柏軒より長ずること六歳であつた。
わたくしは此詩に由つて蘭軒自己に古泉癖が無かつたものと推する。「自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。」柏軒の愛泉は伊沢氏に於ては未曾有の事であつたらしい。
此詩の自註に、蘭軒は蒙斎筆談を引いて、「乞児猶乞古銭」と云ふ事の典拠を示してゐる。これは尋常人が五雑組《ござつそ》に出でてゐると謂《おも》ふべきを慮《おもんぱか》つて、其非なることを言つたものである。一事に逢ふ毎に考証の詳備《しやうび》を期するのは、固より蘭軒の本領である。
わたくしはこれを読んで、乞児《こつじ》も猶古銭を乞ふとはいかなる事を謂ふかと云ふ好奇心を発《おこ》した。
その百五十二
わたくしは蘭軒詩註の「乞児猶乞古銭」と云ふことを知らんと欲した。蘭軒の典拠として取らぬ五雑組は手近にあるので、わたくしは直にその所謂「演為一話」と云ふものを検した。
秦の士に古物《こぶつ》を好むものがあつた。魯の哀公の席《むしろ》を買はむがために田を売り、太王|※[#「分+おおざと」、7巻−301−上−7]《ふん》を去る時の策《さく》を買はむがために家資を傾け、舜の作る所の椀を買はむがために宅を売つた。「於是披哀公之席。持太王之杖。執舜所作之椀。行丐於市曰。那箇衣食父母。有太公九府銭。乞我一文。」これが謝在杭《しやさいかう》の演《えん》し成した一|話《わ》であるらしい。
然らば此|話《わ》の本づく所は何であるか。わたくしは蒙斎筆談を見んと欲して頗る窮した。蒙斎筆談とはいかなる書か。試《こゝろみ》に書目を検すれば、説郛《せつふ》巻《けんの》二十九、古今説海の説略、学海類篇の集余《しふよの》四記述、稗海《はいかい》第三|函《かん》等に収められてゐる。説郛と学海類篇とには、著者の名を宋鄭景璧《そうのていけいへき》としてあり、古今説海と稗海とには宋鄭景望《そうのていけいばう》としてある。恐くは同一の書で、璧《へき》と望《ばう》との名を殊にしてゐるのは、一は是にして一は非であらう。
只|憾《うら》むらくは、書を蔵することの少いわたくしは、説郛以下の叢書を見るに由なく、又性疎懶にして図書館の恩蔭を被ることが出来ない。そこで姑《しばら》く捜索の念を断つこととした。想ふに謝氏の演し成す所の話《わ》が僅に十数行であるから、蒙斎筆談の文は二三行に過ぎぬであらう。
以上書き畢《をは》つた時、弟潤三郎が説郛を抄して寄示した。「頃有嘲好古者謬云。以市古物不計直破家。無以食。遂為丐。猶持所有顔子陋巷瓢。号於人曰。孰有太公九府銭。乞一文。吾得無似之耶。」吾とは著者自ら謂ふのである。説郛本は鄭景壁と署してあつて、「土」に从《したが》ふ「壁」に作つてある。
蘭軒は此年文政六年に阿部|正精《まさきよ》に代つて「刻弘安本孝経跋」を草した。原来伊沢の家では、父|信階《のぶしな》の時より、毎旦《まいたん》孝経を誦《しよう》する例になつてゐたので、蘭軒は命を承けて大いに喜んだ。「今也公(正精)跋此書。儒臣不乏於其人。而命信恬草之。寵遇之渥。豈可不恐惶乎。」
阿部侯の蔵する所の此孝経は弘安二年九月十三日の鈔写に係る巻子本で、「紙質精堅、筆蹟沈遒」である。侯はこれが刊行を企てて、蘭軒に跋文を草することを命じた。
然らば此所謂弘安本とはいかなる本か。わたくしはこれを説明するには、孝経のワリアンテスの問題に足を踏み入れなくてはならない。そのわたくしのために難問題たることは、前《さき》に経音義を説明するに臨んで言つた如くである。その過誤は好意ある人の教を待つて訂正する外無い。
孝経は著者不詳の書である。通途《つうづ》には孔子の門人の筆する所だとなつてゐる。此書の一本に「古文孝経孔氏伝」がある。孔氏《くし》とは孔安国《くあんごく》で、孔子十一世の孫である。此孔伝が果して孔安国の手に成つたか否かは、亦復《またまた》不詳である。孔伝は梁末に一たび亡びて、隋に至つて顕れたので、当時早く偽撰とせられたことがある。
しかし隋唐の世には、此の如き異議あるにも拘らず、孔伝が鄭注《ちやうちゆう》と並び行はれた。鄭は鄭玄《ちやうげん》である。それゆゑ大宝元年の学令に、「凡教授正業、周易鄭玄王弼注、尚書孔安国鄭玄注、三礼毛詩鄭玄注、左伝服虔注、孝経孔安国鄭玄注、論語鄭玄何晏注」と云つてある。
その百五十三
わたくしは
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