。これは嫡男|正粋《まさただ》が病を以て罷められ、次男が夭札《えうさつ》したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲《けみ》するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役《とうえき》の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日|偶《たま/\》山県貞三と云ふものは平戸に、僧|玉産《ぎよくさん》と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
小島氏では此年|尚質《なほかた》が番医師にせられ、森氏では枳園立之《きゑんりつし》の父|恭忠《きようちゆう》が歿した。後に小島氏の姻戚となる塙氏では保己一が歿した。
此年蘭軒は四十五歳、妻益は三十九歳、子女は榛軒十八、常三郎十七、柏軒十二、長八つ、順二つであつた。
その百二十七
文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕《ゆふべ》に至つて霽《は》れた。蘭軒は例に依つて詩を遺してゐる。「壬午元日雪、将※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]新霽、天気和煦、即欣然而作。梅花未発雪花妍。方喜新年兆有年。不似三冬寒気沍。瑤台玉樹自春烟。」尋《つい》で「豆日艸堂集」も亦雪の日であつた。五律の前半に、「入春纔九日、白雪再霏々、未使花香放、奈何鶯語稀」と云つてある。
菅茶山の集には歳首の詩が闕けてゐる。七日に至つて「初春逢置閏、四野未浮陽」、又「誰家挑菜女、載雪満傾篋」の句がある。これは「人日雪」と題する五律の三四七八である。第三は此年に閏《うるふ》正月のあつたことを斥《さ》すのである。此春の初は神辺《かんなべ》も亦寒かつたものと見える。
勤向覚書を見るに、「二月廿五日、次男盤安去年中文学出精に付奉蒙御意候」の文がある。柏軒は辛巳中例の如く勉学を怠らなかつたのである。
三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日景猶午、与横田万年同賦」として五絶がある。横田万年は門人宗禎であらうか。又は其父宗春であらうか。門人録横田氏の下《もと》には十の字内藤と註してある。十の字内藤とは信濃国高遠の城主たる内藤氏で、当時の当主は大和守|頼寧《よりやす》であつた。初めわたくしは十の字内藤の何れの家なるを知らなかつたが、牛込の秋荘《しうさう》さんが手書して教へてくれた。詩は此に末の一首を録する。「看花宜在早朝清。露未全晞塵未生。一賞吾将帰艇去。俗人漸々幾群行。」
茶山は此歳首に書を蘭軒に寄せずに、三月九日に至つて始て問安した。其書は文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「今歳《こんさい》は歳始の書もいまだ差上不申哉。老衰こゝに至り候。御憐察可被下候。又御一笑可被下候。吾兄愈御達者、合家《がふか》御清祥は時々承候。拙家も無事に御座候。御放念可被下候。ことしの春も昔の如くに過候。かくて七十五にも相成候。前路おもふべし。」
「市野篤実北条を動かし候由、奇と可申候。狩谷は橋梓《けうし》ともにさだめて依旧候覧《きうによりそろらむ》。ことしは西遊はなきや。御次《おんついで》に宜奉願上候。去年宮島よりいづかたいかなる遊びに候ひしや承度候。さて御次に古庵様市川子成田鵜川(近得一書未報)諸君へ宜奉願上候。梧堂は杳然《えうぜん》寸耗《すんばう》なし。いまだ東都に候哉。もはや帰郷に候哉。もしゐられ候はば宜御申可被下候。松島の画題は届候哉。種々旧遊憶出候而御なつかしく奉存候。御内上様《おんうちうへさま》おさよどのへも御次に宜奉願上候。妻も宜申上よと申候。恐惶謹言。三月九日。(正月二日|祁寒《きかん》、硯に生冰《こほりをしやうず》。そののち尋常。花朝前《くわてうぜん》一夕雷雨めづらしく、二月廿三日小地震、三月八日亦小地震。其外なにごともなし。)菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様高作驚目申候。実底に御読書あれかしと奉存候。才子は浮躁なりやすきものに候。」
その百二十八
菅茶山が「かくて七十五にも相成候」と書した此年壬午三月九日の書牘にも、例の如く許多《あまた》の人名が見えてゐる。しかし此度は新しい名字は無い。
市野迷庵の質愨《しつかく》が能く北条霞亭を感動せしめた
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