さを加へたのではあるが、縦《たと》ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
 八月十二日に蘭軒は岸本由豆流《きしもとゆづる》に請待《しやうだい》せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵《よごこあん》と万笈堂《まんきふだう》主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園《ざいゑん》は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏《はなぶさうぢ》、通称は平吉である。
 此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢《をは》る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
 前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
 わたくしは上《かみ》に西遊中の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。想ふに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は春の末に江戸を去つて、秋の末には帰り来つたのであらう。「故人半歳在天涯。」留守は丁度半年の間であつた。
 序《ついで》にわたくしは此「秋行」の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負《そむ》かぬことを附記して置く。それは石蒜《せきさん》が珍らしく詩に入つてゐることである。「荒径雨過滑緑苔。花紅石蒜幾茎開。」詩歌の石蒜を詠ずるものはわたくしの記憶に殆無い。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池辺|義象《よしかた》さんの紀行に歌一首があつたかとおもふが、今は忘れた。わたくしは大正五年の文部省展覧会の洋画を監査して家に還り、其夜燈下に此文を草する。昼間《ちうかん》観た油画に児童が石蒜|数茎《すうかう》を摘んで帰る図があつて、心にこれを奇とした。そして夜蘭軒の詩を閲《けみ》して、又此花に逢つたのである。石蒜は和名したまがり、死人花《しびとばな》、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし英国人は其根を伝へて栽培し、一盆の価《あたひ》往々数|磅《ポンド》に上《のぼ》つてゐる。

     その百二十六

 此年文政四年秋の蘭軒の詩は、上《かみ》に云ふ所の外、猶八首ある。其中に嫡子榛軒と真野冬旭《まのとうきよく》との名が見えてゐる。
 榛軒は或日友を会して詩を賦した。此時父蘭軒が秋の七草を詠じた。わたくしは此にその「秋郊詠所見七首」の引を抄出する。「古昔寧楽朝山上憶良詠秋野花草七種。載在万葉集。其所詠皆是清淡蕭灑。可愛之種。実足想韻士之胸襟也。近時人間或栽而為賞。画而為観。秋七草之称。於是乎為盛矣。抑亦古学之所風靡。而好事之所波及也歟。一日児厚会詩友数輩。以秋郊詠所見為題。余因賦秋野花草七種詩。」所謂七種は胡枝花《はぎ》、芒《すゝき》、葛《くず》、敗醤花《をみなへし》、蘭草《ふぢばかま》、牽牛花《あさがほ》及|瞿麦《なでしこ》である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
 真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者|菊塢《きくう》の時代であつた。菊塢は北平《きたへい》と呼ばれて陸奥国の産《うまれ》であつた。人に道号を求めて帰空《きくう》と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
 冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶《へい》に梅菊《ばいきく》が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
 阿部家では此年三男寛三郎|正寧《まさやす》が正精《まさきよ》の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した
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