を慨《なげ》いて作つたのである。然るに此行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
 わたくしは経音義のために余りに多くの辞《ことば》を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃《くわうかん》の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が※[#「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−63]※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《けいへい》本に※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]《なら》つて変改してあるのに慊《あきたら》ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
 以上が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の蘭軒に与へた書の註脚である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
 十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
 十七日には奈良へ立つた筈である。
 此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子が福山に宿した。
 二十日の朝父子は菅茶山を神辺《かんなべ》に訪ひ、其家に宿した。
 二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
 二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
 此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
 茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪《き》り取つて蘭軒に示した。この剪刀《はさみ》の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」

     その百十九

 菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
 先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
 霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
 茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将《まさ》に妹女《まいぢよ》井上氏を以て霞亭に妻《めあは》せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
 わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納《い》れてゐたことは確である。
 今わたくしの許《もと》に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人|井達夫《せいたつふ》等は嘗て貲《し》を捐《す》てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽《おく》つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償《つぐの》つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯《がへん》ぜなかつた。そこで達夫等
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