はこれを帰省詩嚢を刻する資に充《み》てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
 帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担※[#「竹かんむり/登」、第4水準2−83−72]。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉《かんれんぎよく》、宇は宇清蔚《うせいうつ》である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
 わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞《ことば》長ければ全篇を写し出さずに、下《しも》に有用の句を摘録することとする。

     その百二十

 わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙《とうし》の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
 詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳|閏《じゆん》八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂|遭汚《さうを》の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
 そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
 わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方《まさ》に纔《わづか》に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而《かつて》嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐《かつをとき》候」と云つてゐる。此弟惟長との嵯峨の幽棲があつて、始て鵬斎の「年来高踏、不覊塵累」が活きるのである。花亭の文は竹柏園の蔵儲に係る尺牘で、九月四日の日附がある。そしてそれが文政五年九月四日だと云ふことは、霞亭の齢《よはひ》が四十三としてあるを以て知ることが出来る。
 わたくしは語つて此に至つて、霞亭の容貌を想ひ浮べる。山陽は「君為人※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]而晢、隆準、眼有光」と云つてゐる。又「風神灑脱」とも云つてゐる。これが嵯峨の庵《いほり》の主人《あるじ》であつた。そしてその口にする所は奈何《いかん》。「跌蕩不量分。功業妄自期。意謂身顕達。竹帛名可垂。」そして此主人に侍してゐたものは誰か。少《わか》い弟惟長只一人であつた。
 想ふに霞亭は所謂一筋繩では行かぬ男であつた。茶山はこれを捉へるまでには、余程骨を折つたことであらう。

     その百二十一

 わたくしは北条霞亭の東徙《とうし》を語るに先だつて、霞亭は何時|娶《めと》つたか、何時仕へたかと問うた。
 
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