つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
三書はいかにも蘭軒が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上《のぼ》することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾《と》くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙《くちばし》を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]してもらひたい。
一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下《もと》には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の識語のある此本は後枳園の子|約之《やくし》の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教《くげう》書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏《はいし》慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶《とも》に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵《れいざう》は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。
その百十八
わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹《きつたん》より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂《にんちよう》に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪《かこう》の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑《しばら》く措いて、わたくしは書籍《しよじやく》の運命の奇を説く次《ついで》に、行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]《かうたう》の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]《くわくい》の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざる
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