つた。
 寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
 世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父《しゆくふ》杏坪《きやうへい》が当主|重晟《しげあきら》の嫡子|斉賢《なりかた》の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦|杉木小路《すぎのきこうぢ》の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
 山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫|古梅《こばい》さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
 浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
 山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎《かご》を下《くだ》つて霞が関へ往つた。山陽は空轎《からかご》に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
 これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内《かまへうち》にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹|直《なほ》をして続絃《ぞくげん》せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫《じゆうぼふ》である。
 山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町|雉子橋《きじばし》の畔《ほとり》に訪うた。これは諸書の皆|載《の》する所である。
 さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此《かく》の如きに過ぎない。
 然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家にも寓したと云ふのである。

     その十四

 伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中《なかんづく》茶山は同じく阿部家の俸を食《は》む身の上であるので、其|交《まじはり》が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋《わらぢ》を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に山陽を紹介して、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
 此説は世の伝ふる所と太《はなは》だ逕庭《けいてい》がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※[#「月+(勿/口)」、7巻−29−下−5]合《ふんがふ》する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿《じゆうぼせい》の二洲|尾藤良佐《びとうりやうさ》が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂《いはゆる》足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾《さしはさ》みやうも無い。
 しかし口碑などと云ふものは、固《もと》より軽《かろがろ》しく信ずべきでは無いが、さればとて又|妄《みだり》に疑ふべきでも無い。若し通途《つうづ》の説を以て動すべからざるものとなして、直《たゞち》に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計《たいさうけい》ではなからうか。
 伊沢氏でお曾能《その》さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父|榛軒《しんけん》も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉|幾勢《きせ》は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て
前へ 次へ
全284ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング