学風である。
 蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃《ひそか》に思ふに只蘭軒をして能く拘儒《くじゆ》たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚《たまもの》ではなかつただらうか。

     その十二

 蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》、木村|文河《ぶんか》、植村士明、下条寿仙《げでうじゆせん》、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の孫女《まごむすめ》は後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒の女《むすめ》が又※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の養孫《やうそん》矩之《くし》に嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。
 木村文河、名は定良《さだよし》、字《あざな》は駿卿、通称は駿蔵、一に橿園《きやうゑん》と号した。身分は先手与力《さきてよりき》であつた。橘|千蔭《ちかげ》、村田|春海《はるみ》等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
 植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明は字《あざな》である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。
 下条寿仙、名は成玉《せいぎよく》、字は叔琢《しゆくたく》である。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守|光行《みつゆき》の医官になつた。寿仙の弟春泰、名は世簡《せいかん》、字は季父《きふ》である。横山の事は未だ詳《つまびらか》にしない。
 蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一|所《しよ》」と註してある。浅田|栗園《りつゑん》の皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。
 武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末より法眼《はふげん》としてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。
 蘭軒が本草《ほんざう》の師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後の弟子《ていし》であらう。
 赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「千屈菜《せんくつさい》、和名みそはぎ、六月|晦日御祓《みそかみそぎ》の頃より咲初《さきそむ》る心ならむと余《わが》考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事の序《ついで》に白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。
 蘭軒が師事した所の儒家医家は概《おほむ》ね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。
 蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩は菅茶山《くわんちやざん》に就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部|正倫《まさとも》が林述斎の言《こと》を聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。

     その十三

 信階《のぶしな》は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年|閏《うるふ》八月十五日に、正倫の曾祖父備中守|正邦《まさくに》が下野国宇都宮より徙《うつ》されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守|正右《まさすけ》が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲《つ》いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
 寛政七年には、十八年来、信階の女《ぢよ》幾勢《きせ》が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守|斉隆《なりたか》が卒して、十月六日に嫡子官兵衛|斉清《なりきよ》が襲封したのである。治之《はるゆき》夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であ
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