山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此《かく》の如き説を憑空《ひようくう》構成しようぞ。
 徳《めぐむ》さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺《かんなべ》の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋《わらぢ》を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。

     その十五

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔《はし》つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。
 二洲が此《かく》の如き小疵瑕《せうしか》の故を以て山陽を逐つたのでないことは言を須《ま》たない。又|縦《よ》しや二洲の怒が劇《はげし》かつたとしても、其妻|直《なほ》は必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。
 わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門《かど》で脱いだのが、草鞋《わらぢ》でなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。
 世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯《あやま》り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
 手紙の原本はわたくしの曾《かつ》て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚《きざきかうしやう》さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末《すゑ》に下《しも》の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤|定斎《ていさい》である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留《えんりう》すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂《いはゆる》誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾《さしはさ》まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。

     その十六

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば
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