句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥《さ》して言つたのであらう。令兄は信美《しんび》であらう。蘭軒の父|信階《のぶしな》の養父|信栄《しんえい》の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父《しゆくふ》に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑《しばら》く茶山が信美と其|女《ぢよ》とを識つてゐたものと看る。
 以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
 余語古庵《よごこあん》をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰《りついん》[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人《きつじん》か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘《しよどく》を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂《いはゆる》「市川」である。
 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。

     その八十一

 菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶《たま/\》茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘《しよどく》にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭《かぶらきうんたん》と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
 老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物《げぶつ》にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此|社伴《しやはん》の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
 九月には茶山の詩中に臥蓐《ぐわじよく》の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻《たゞ》に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙《うつ》つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教|珍敷《めづらしく》拝見仕候。御気色之事|而已《のみ》案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和《せつわ》ども呈《ていし》申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中|不勝《すぐれず》、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶《くわへい》は日々坐右におき、今日は杜若《かきつばた》二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎|良佐《りやうさ》、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。
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