千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店《こだな》をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫《つぶて》とも不承候。源《げん》十|直卿《ちよくけい》仍旧《きうにより》候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿|依旧《きうにより》候。主計《かぞへ》はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里《りうり》(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次《おんついで》に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」

     その八十二

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘《ぜんどく》の字句をさへ踏襲してゐる。
 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端《はし》なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎|良佐《りやうさ》と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱《なや》む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底|奈何《いかん》ともすべからずと云ふに畢《をは》つた。
 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※[#「亡/虫」、7巻−168−下−3]《きばう》日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
 頃日《このごろ》わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井|乙男《おとを》さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允《ゆる》さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶《たま/\》藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、7巻−168−下−10]日記のいかなる書なるかを知つた。
 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七|頁《けつ》である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子|松《しよう》の跋がこれを填《うづ》めてゐる。
 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓※[#「王+王」、第4水準2−80−64]聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓※[#「王+王」、第4水準2−80−64]《かんかく》は山口覚大夫、号|凹巷《あふこう》で、著者校者並に伊勢の人である。
 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]《はつじん》の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田|器甫《きほ》は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷《ほどがや》に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約《しゆくやく》があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅《ほんえき》はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。

     その八
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