二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎は第《しばら》く措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。
常三郎は生れて幾《いくばく》もあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にして物学《ものまなび》も出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、動《やゝ》もすれば日夜悲泣して息《や》まなかつた。某《それ》の年の大晦《おほつごもり》に常三郎の心疾が作《おこ》つて、母益は慰撫のために琴を弾じて夜闌《やらん》に及んだことさへあるさうである。
詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎は与《あづか》らなかつたのである。
夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。頃日《このごろ》伊沢分家に質《たゞ》して知り得たる所に従へば、蘭軒の長女は天津《てつ》で、文化二年に夭した。其生年月を詳《つまびらか》にしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名を長《ちやう》と云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」
此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。上《かみ》に云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田|吉顕《よしあき》さんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。
その七十
此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。所謂《いはゆる》「七十老翁欲何求、復載※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。「梅天初霽石榴紅、何限離情一酔中」の句に、節物が点出せられてゐる。
茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪《かうさう》の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。旧牛医《きうぎうい》は嘗て牛医と錯《あやま》り認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日疝積相煩候所、兎角不相勝候に付、明日より引込保養仕候段御達申上候」と、勤向覚書に云つてある。足疾のために消化を害せられてゐたのであらう。
茶山が江戸に抵《いた》る比《ころほひ》には、蘭軒の疝積《せんしやく》も稍おこたつてゐた。「扶病歩園。従来遊戯作生涯。酔歩吟行少在家。病脚連旬堪自笑。扶※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]纔看薬欄花。」園《その》に百日紅《さるすべり》がさいてゐたので、蘭軒は折らせて阿部邸の茶山が許に送つた。「園中紫薇花盛開、乃折数枝、贈菅先生。紫薇花発横斜影。寄贈満枝朝露多。百日紅葩能得称。輸君終歳酔顔※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]。」
七月に蘭軒は病中ながら月代《さかやき》をした。「七月九日疝積追々快方には御座候得共、未聢と不仕候間、月代仕度奉願上候所、早速願之趣被仰付候」と、覚書に云つてある。
茶山は此月に鵜川|子醇《しじゆん》等を伴つて、不忍池へ蓮を看に往つて、帰途に蘭軒の病牀を訪うた。前にわたくしは蘭軒が家を湖上に移したことを言つたが、それは一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。前度文化紀元の在府中に茶山が此人のために詩を作つたことがある。「関帝、応鵜川純二需」の七絶が即是である。「茶山菅先生携鵜川子醇及諸子、看荷花於篠池、帰路訪余、余時臥病、喜而賦一絶、昔年余亦従二君同看、今已為隔世之想云。十歳重携旧酒徒、荷花時節小西湖。酔帰猶有芳情在。満袖清香襲病夫。」
次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢憺父、余与憺父狩谷卿雲諸子、曾作此賞、距今十一年矣、憺夫有詩、次韻以答。此間佳麗世間無。十里芙蓉花満湖。不料旗亭雲錦裏。尊前重著旧樵夫。」
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