と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下に舎《やど》つた後の事であつたかも知れない。
 蘭軒は此年病の為に困窮に陥つて、蔵書をさへ沽《う》らなくてはならぬ程であつた。そこで知友が胥謀《あひはか》つて、頼母子《たのもし》講様の社を結んで救つた。彼の茶山に疎懶《そらん》を怪まれたのも、勝手の不如意が一因をなしてゐたのではなからうか。「癸酉終歳臥病、家貲頗乏、数人為結義社、仮与金若干、記喜。経年常負債。一歳総投痾。窮鬼難駆逐。儲書将典過。東西人倶眷。黄白術相和。政是逢江激。轍魚帰海波。」蘭軒がためには「儲書将典過」が、シヤイロツクに心の臓を刳《ゑぐ》り取られるより苦しかつたであらう。
 蘭軒は此《かく》の如く病と貧とに苦められて、感慨なきこと能はず、歳暮に「自責」の詩を作つた。「官路幸過疎放身。一家暖飽十余人。従来無手労耕織。不説君恩却説貧。」
 此年尾藤二洲、犬冢印南、今川槐庵の亡くなつたことは上《かみ》に云ふ所の如くである。
 頼氏では此年春水が陞等《しようとう》加禄の喜に遇つたが、冬より「水飲病」を得て、終身|全愈《ぜんゆ》するに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た。春水は山陽を訪ふとき、養嗣子|聿庵《いつあん》を伴つて往つた。即ち山陽の実子|御園《みその》氏の出|元協《げんけふ》である。
 此年蘭軒は三十七歳、妻益三十一歳、三児中榛軒十歳、常三郎九歳、柏軒四歳であつた。
 文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。
「甲戌早春。嚢※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]遍尋郊野梅。」当時蘭軒の病候《びやうこう》には消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。

     その六十九

 甲戌早春の詩の後に、羽子《はご》、追羽子の二絶がある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引は素《もと》分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取※[#「木+患」、第3水準1−86−5]子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽※[#「にんべん+票」、第4水準2−1−84]却立勲。」
 正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」
 蘭軒は此《かく》の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或は匐行《ふくかう》して主に謁し、或は舁《か》かれて庁に上つたのである。
 二月二十一日に阿部|正倫《まさとも》の未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守|信寧《のぶやす》であつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−142−下−4]斎《かんさい》詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。
 水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」
 蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」
 此詩題に
前へ 次へ
全284ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング