嘗て茶山が蘭軒の疎濶《そくわつ》を責めた後、わたくしは二人の間にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずして至つたらしいから、必ずや茶山は相見る日を待たずして屡《しば/\》報復を促し、蘭軒は遂に一たび断えたコレスポンダンスの緒を継いだことであらう。
此初度の訪問は何日であつたか知らぬが、少くも十四日よりは早かつたらしい。次で雨の日が続いた。蘭軒に「秋霖」の二絶がある。此間勤番暮しの茶山は、衣食何くれとなく不自由な事がある毎に、救を蘭軒に求めた。就中《なかんづく》茶山は菜蔬を嗜《たし》んだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたのである。
その七十一
此秋文化十一年の雨の中元に、蘭軒は菅茶山を家に招いた。当時宴を張つて茶山を請ずるものは甚多かつたので、茶山はこれがために忙殺せられてゐたが、遠慮のいらぬ故人の案内に応ずるのは苦にはならなかつたであらう。
茶山が此案内を受けた時の返事が、偶《たま/\》わたくしの饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた一束の書牘《しよどく》の中に遺つてゐた。これを見て茶山と蘭軒との間の隔なき交のさまが窺はれる。
「盆前とて所謂《いはゆる》書出してふ物|被遣《つかはされ》、帖面なしのかけ取など御使にわたし申候。此中ののこりをさへに御受取可被下候。」
「十六日辱奉存候。外にすこし約束ありかけ候其方をのべさせ可申候。只今状かき初申候。のべ候はば参可申候。いづれこれより可申上候。」
「八百屋物の代銭百文先さき金に奥様へ御わたし申候。あとは追々さし上可申候。御買おき可被下候。部屋番とりにさし上可申候。其品は いも なすび ふぢ豆の類なににてもよし かいわり菜(備後方言まびき菜) 外名をしらず きらひもの たうなす さつまいも ぼうふら(南瓜) 太中。辞安様。」
十六日の請待は延びて十七日となつた。そして此日に幸に雨が霽れた。茶山の詩の自註にかう云つてある。「十五夜圃公舟遊。十六夜卿雲別業集。並阻雨不果。是日訪憺父病。」圃公《ほこう》は中村圃公である。茶山が蘭軒に招かれた故を以て、会期を延すことを交渉した相手が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎であつたのは意外である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の催を蘭軒の知らなかつたのは意外である。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は会期を病褥にある蘭軒に告げなかつたのであらう。
茶山は蘭軒を訪うた帰途「茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証に充《み》つべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期各処違。此日無端問人病。長橋独踏月光帰。」「林頭月走夜雲忙。数店燈毬閃閃光。茗水橋辺行客少。満街風露進新涼。」
茶山の集を繙閲《はんえつ》すれば、宴飲の盛なることは秋冬の交が尤甚しかつた。此時に当つて綻びた衣《きぬ》の繕《つくろひ》、朝夕の飲饌の世話などは、蘭軒の家が主としてこれに当つてゐたらしい。伊沢氏は詞場に酣戦してゐる茶山がために兵站の用をなしてゐたらしい。
菜蔬は蘭軒の妻が常に店頭《てんとう》の物を買つて送つたが、或日それに自園の大根を雑へて、蘭軒の詩を添へて遣つた。「園蔬頗肥、贈菅先生、誇其美云。学圃近来術不疎。肥※[#「酉+農」、7巻−147−上−10]自愛満畦蔬。贈君莱※[#「くさかんむり/服」、第4水準2−86−29]尤佳味。却勝市門店上魚。」
十一月には茶山の官事が稍忙しくなつたらしい。「霜月廿九日」とした手紙に、「此頃府誌いそがしく他出むづかしく候」と云つてある。府誌とは福山地志か。此書は文化六年に成つて上《たてまつ》つたものである。更に筆削などを命ぜられたものであらうか。
同じ書に「御姉様よりめづらしき御茶碗御恵被下、私かねて望候物、別而難有奉存候」と云ひ、又「下著御仕たて被下、奥方様へ御世話の御礼宜御申可被下候」と云つてある。「御姉様」は黒田家に仕へてゐた蘭軒の姉|幾勢《きせ》か。幾勢には茶碗の礼、益《ます》には下著の礼が言つてある。
その七十二
此冬文化十一年の冬の間に、菅茶山は幾度蘭軒をおとづれたか不明である。しかし前に引いた十一月二十九日の書にも「其内|偸間《とうかん》可申候」と云つてある。
十二月六日に至つて、茶山は果して夕方に蘭軒を訪うた。蘭軒夫妻は厚くもてなし、主客の間には種々の打明話も交換せられた。茶山は襦袢が薄くて寒《さぶ》さに耐へぬと云つて、益に繕ふことを頼んだ。又部屋の庖厨の不行届を話したので、蘭軒夫妻は下物《げぶつ》飯菜の幾種かを貽《おく》つた。茶山は夜更《よふ》けて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。
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