得記喜。物帰所好不関貧。得失従来如有神。富子蔵書都記印。奇書自属愛書人。」経籍訪古志に、「白氏文集七十一巻、元和戊午那波道円活字刊本」と云つてあるのは是か。訪吉志は「戊午」を「戊半」と誤つてゐるが、後文に「戊午七月」と云つてある。此にも酌源堂蔵とは註して無い。
 わたくしは前の戦国策と云ひ、此白氏文集と云ひ、伊沢氏酌源堂の蔵※[#「去/廾」、7巻−130−下−5]《ざうきよ》と覚しきものが、皆其所在の記註を闕いでゐるのを見て、心これを怪まざることを得ない。和田万吉さんは「集書家伊沢蘭軒翁略伝」にかう云つてゐる。「経籍訪古志本文中酌源堂の蔵儲を採録せるは僅に六七種に過ぎず、之を求古楼、崇蘭館、宝素堂等の所蔵に比べて、珍本良書の数量上に著き遜色あるが如く見ゆるは怪むべし」と云つてゐる。惟《おも》ふにわたくしの彼疑が釈《と》けたら、随つて和田さんの此疑も釈けるのではなからうか。多く古書の聚散遷移の迹を識つてゐる人の教を乞ひたい。

     その六十四

 わたくしは前年文化九年に蘭軒が詩を作らなかつたことを怪んだ。然るに此年文化十年にも亦怪むべき事がある。上《かみ》に引いた春の詩数首は茶山の批閲を経たものが多い。批閲は後に加へたものである。これに反して茶山は春以来|屡《しば/\》書を蘭軒に寄せたのに、蘭軒は久しくこれに答へなかつた。蘭軒は病んではゐたが、其病は書を裁することを礙《さまた》ぐる程のものではなかつたらしい。前年|吟哦《ぎんが》を絶つてゐた故が不審である如く、此年に不沙汰をした故も亦不審である。
 茶山は六月十二日に今川槐庵に書を与へた。これは槐庵をして蘭軒の報復を促さしめようとしたのである。此書はわたくしが饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた茶山|手柬《しゆかん》の中の一通である。
 わたくしは茶山の書の全文を此に写出する。
「大暑の候|愈《いよ/\》御安祥御勤被成候由、奥様にも定而《さだめて》御安祥、恐悦奉賀候。先頃は新様封皮《しんやうほうひ》沢山に御恵被下、忝奉存候。御蔵版に御座候而又も可被下旨、別而《べつして》雀躍仕候。近比は御多事に御座候由、御推察申上候。」
「伊沢いく度状遣候も、一字隻言之返事もなく候。此人今は壮健之由可賀候。」
「蘇州府の柳を※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]《もらひ》、庭前にさしおき、活し申候。大《おほき》になり、枝をきられ候時に至候はば進上可致候やと御伝へ可被下候。柳は早き物に候。来年あたりは被贈可申候。徳見茂四郎より※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]申候。」
「伊沢正月金子入書状之返事も無御座候而、頼遣し候ことも、なしとも礫《つぶて》とも無之候。これらのことちと御尋被下度奉希候。御忙劇之中へかかること申上候、これも伊沢返事なき故也。這漢《このかん》を御しかり可被下候。」
「先達而《せんだつて》伊沢話に、津軽屋へ便御座候家、大坂筑前屋と申に御座候由、某島《それがししま》とやら承候而忘れ申候。只今も其家より便御座候はば、伊沢より被申下候様御頼可被下候。近比御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは夫も出来不申こまり申候。御面倒之御事伊沢と御一緒に御覧、彼方より申参候様御頼可被下候。恐惶謹言。六月十二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。今川剛八様侍史。筑前屋より津軽屋へ之便一年にいくたび御座候やいつ比《ごろ》御座候やも奉願上候。」
 此書を読めば、蘭軒が数回の茶山の書に答へずにゐたことが知られる。就中《なかんづく》正月に発した金子入の書は、茶山が必ず報復を得ることを期してゐたのに、蘭軒はこれにさへ答へずにゐた。蘭軒がかくまで通信を怠つてゐたのは何故か不審である。
 茶山が徳見に託して西湖の柳を取り寄せようとしてゐたことは前にも見えてゐた。茶山は柳の来るを待ち兼ねて、蘭軒をして徳見に書を遣つて督促せしめようとしたのである。此書を見るに、柳は既に来た。そして茶山は蘭軒に其枝を分たうと云つてゐる。山田|方谷《はうこく》が茶山の家の此柳を詠んだ和歌がある。「西湖柳。もろこしのたねとしきけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、石原某の如きもこれを栽ゑて柳庵と号し、頼春水に詩を索めた。「石原柳庵得西湖柳、以名其庵、索詩。分得西湖堤上翠。併烟移植読書槞。春風応引蘇公夢。万里来遊日本東。」
 当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つて知られる。茶山が蘭軒に不満であつたのも、此難渋に堪へずして焦燥した余の事である。そして茶山が其不満を説いて露骨を嫌はず、「這漢《このかん》を御しかり可被下候」と云ふに至つたのは、偶《たま/\》以て
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