二人の交の甚深かつたことを証するに足るのである。

     その六十五

 茶山は書を槐庵に与へた後、又一箇月の間忍んで蘭軒の信書を俟《ま》つてゐた。気の毒な事にはそれはそらだのめであつた。然るに此年文化十年七月下旬に偶《たま/\》江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた。即ち七月二十二日附の書で、亦わたくしが饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた一括の尺牘《せきどく》の中にある。わたくしはこれをも省略せずに此に挙げる。
「春来一再書状差上候へ共、漠然として御返事もなし。如何《いかに》と人に尋候へば、辞安も今は尋常的の医になりし故、儒者めけるものの文通などは面倒に思候覧などと申候。我辞安其|体《てい》には有御座間布《ござあるまじく》、大かたは医を行《おこなひ》いそがしき事ならむと奉存候。しかしたとひ閙敷《いそがしく》とも、折節寸札御返事は奉希《こひねがひたてまつり》候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎などといふものの往来なく、倉成善司(奥平家儒官)卒去、尾藤先生老衰隠去と申様之事にて候。しかるを我辞安行路之人のごとくにては、外に手蔓無之こまり申候。何分今度は御返事可被下候。こりてもこりず又々用事申上候。」
「用事。一、御腰に下げられ候巾著、わたくしへも十年前御買被下候とのゐものの形なり。価《あたひ》十匁と申を九つか十か御こし被下度候。これは人にたのまれ候。皆心やすき人也。金子は此度之便遣しがたく候。よき便の時さし上可申候。直段《ねだん》少々|上《のぼ》り而《て》も不苦候。必々奉願上候。」
「私詩集東都へ参申候哉。書物屋うりいそぎをいたし、校正せぬさきにすり出し候も有之候。もし御覧被下候はば、末梢頭《まつせうとう》に五言古詩の長き作入候本|宜《よろしく》候。(登々庵武元質《とう/\あんぶげんしつ》と申人の跋の心にいれたる詩也。)これのなき方ははじめ之本に候。」
「津軽屋へ出入候筑前船之便に而、津軽屋へ頼遣候へば、慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼候而も不苦候哉。只今は星移《ほしうつり》物換《ものかはり》候事也。此事も承はり度奉存候。此御返事早く奉願候。」
「一、塙《はなは》へ之頼之本少々のこり候品、何卒可相成候はば早く御越奉願上候。これも熱のさめぬうちに非ざれば出来不申候もの也。」
「一、前年|蠣崎将監《かきざきしやうげん》殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所《びんしよ》も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」
「得意ざきへ物買に行ごとく、用事|計《ばかり》申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、無拠《よんどころなく》御頼申上候。これまた前世より之|業《ごふ》などと思召、御|辨《わきまへ》被下度奉願上候。」
「御内上様へ次《ついで》に宜奉願上候。敬白。七月廿二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様侍史。猶々妻も自私《わたくしより》宜申上候へと申托《まをしたくし》候。」
 茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又|故《もと》の直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼《よ》る外に途が無かつたのである。
 茶山は頼|杏坪《きやうへい》が江戸に往来しなくなつたり、倉成|竜渚《りゆうしよ》が死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものは※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]夫《さうふ》になつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。

     その六十六

 頼|杏坪《きやうへい》は此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしが通途《つうづ》の説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。
 杏坪が江戸に往反《わうへん》しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行《こほりぶぎやう》にせられたのが此年の七月ださうだ
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