九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。
秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒の外舅《ぐわいきう》である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国|薦野《こもの》の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。
休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫|久貴《ひさたか》の侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くは為泰入道等覚《ためやすにふだうとうがく》の門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語に下《しも》の如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」
頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、※[#「月+無」、7巻−128−下−2]養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。
此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。
その六十三
文化十年には蘭軒が正月に頭風《づふう》を患《うれ》へたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。
しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜が楮表《ちよへう》に溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。
経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。
二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつたと見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」月代《さかやき》はしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。
然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。
余語《よご》氏は世《よゝ》古庵の号を襲《つ》いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
犬冢吉人《いぬづかきつじん》は印南《いんなん》か、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、老樗軒《らうちよけん》の墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更に説文《せつもん》をも出して見た。説文に樗《くわ》は「从木※[#「樗のつくり」、第3水準1−93−68]声、読若華」、※[#「木+罅のつくり」、7巻−130−上−2]《ちよ》は「从木※[#「罅のつくり」、第4水準2−87−26]声」と云つてある。字典は樗の下《もと》に集韻を引いて「又作※[#「木へん+罅のつくり」、7巻−130−上−3]、丑居切」と云ひ、※[#「木+罅のつくり」、7巻−130−上−3]の下には只「同樗」と云つてゐる。文字を知つた人の教を受けたい。
覚書と詩集とには此《かく》の如き牴牾《ていご》があるが、蘭軒が病なくして病と称したのでないことは明である。集に「病中偶成」の五律がある。「時節頃来好。抱痾倦日長。晴山鳩穀々。春社鼓※[#「金+堂」、第4水準2−91−34]々。盃酒将忘味。薬湯頻換方。花期看自過。昏夢繞池塘。」茶山は「医人之病、往々如此、詩則妙」と評してゐる。
春の詩の後に白氏文集の善本を獲た時の作がある。「余蔵白氏集活字版本、旧年売却、頃書肆英平吉携来一本、即旧架物也、購
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