の呼ぶに任せたのかも知れない。
多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りうはん》は宗家を継ぎ、※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭である。
此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子|榛軒棠助《しんけんたうすけ》、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄《とへい》転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐《かうしう》の業を続けてゐる。
此年には※[#「くさかんむり/姦」、7巻−125−下−15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江|允《いん》と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄※[#「糸+相」、第4水準2−84−41]布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外《しやくこんげ》と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
混外、名は宥欣《いうきん》、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。
その六十二
頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺《かんなべ》の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏《うるふ》二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷《ゐ》を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨※[#「對/心」、第4水準2−12−80]《ゑんたい》の語多きは怪むことを須《もち》ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略《ほゞ》遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」
わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。賜第《してい》は壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。
此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。
文化九年は蘭軒がために何か例に違《たが》つた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−127−上−13]斎《かんさい》詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。
わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしは姑《しばら》く未解決のままに此疑問を保留して置く。
正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。頃日《このごろ》聞く所に拠れば、夭折した長女は天津《てつ》で、次が此女であつたさうである。
勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」
五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文は下《しも》の如くである。「五月
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