「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介《もとすけ》も同様也。久しく逢不申候。福山|辺《へんより》長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平《やすへい》と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年|漸《やうやく》起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂《とげず》、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住《ごぢゆう》と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、7巻−118−下−3]也。為人《ひととなり》は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中《このちゆう》も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※[#「敝/犬」、7巻−118−下−10]弟《ばうへいてい》が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日|菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門《かど》をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此|比《ころ》の事ゆゑ書候。」
以上が長さ三尺|許《ばかり》の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為《とゐ》にあらざるを信ずる。
最初に茶山は地の相|距《さ》ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初《はじめ》雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人《そうひと》の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海《しりうみ》は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河《みかは》(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈《いよ/\》明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨《ぞくせつべん》を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。
その五十九
庚午|旺秋《わうしう》の茶山の尺牘《せきどく》には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
其一は木王園《もくわうゑん》主人である。上《かみ》に云つた犬塚|印南《いんなん》で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳《つまびらか》にしてゐて、一|陪字《ばいじ》を下してゐる。頃日《このごろ》市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
釈雲室《しやくうんしつ》の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡《ほうかう》、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭|関松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《せきしようそう》の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸《やよすがし》は松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井|雅楽頭忠以《うたのかみたゞざね》浪人結城唯助として入塾した。これが田沼|主殿頭意知《とのものかみおきとも》執政の間の聖堂である。松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野|栗山《りつざん》、岡田寒泉が擢用せられ、松※[#「片+總のつく
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