り」、第3水準1−87−68]は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾《いくばく》ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂《いはゆる》蕉隠公子《せういんこうし》で、これが林家九世述斎|乗衡《のりひら》となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守|高矗《たかのぶ》が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
 安原三吾と鈴木作右衛門とは稍《やゝ》晦《くら》い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原|希曾《きそう》、安原|省叔《せいしゆく》及|上《かみ》に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字《あざな》は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木|徳輔《とくほ》は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
 此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略《ほゞ》窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
 其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田|道《だう》、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
 其三は蠣崎《かきざき》氏で、所謂《いはゆる》源波響《げんはきやう》である。此年四十一歳であつた。
 其四の津軽屋は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
 其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
 其六の塙《はなは》は保己《ほき》一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
 其七の徳見茂四郎は或は※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《じんだう》若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域《えいゐき》二箇所を歴訪したが、名字号等を彫《ゑ》らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶《たま/\》※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂の諱《いみな》を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
 其八の「あぶらや本介」は即ち油元助《ゆげんじよ》である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張《いば》ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
 其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
 茶山の書牘《しよどく》は此より山陽の噂に入るのである。

     その六十

 菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
 茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
 此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡《しば/″\》茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁《しゆくえん》ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
 神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾《りよじゆく》附属」と云ひ、春水が
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