の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふより此《かく》の如く推するのである。
 茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」
 秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛を患《うれ》へて、医師谷村|玄※[#「王+民」、第3水準1−87−89]《げんみん》の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守|泰済《やすずみ》の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。
 頼菅二家に於て、山陽に神辺《かんなべ》の塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」
 此年蘭軒は年三十三、妻|益《ます》は二十七、嫡子|榛軒信厚《しんけんのぶあつ》は六つ、次子常三郎は五つであつた。
 文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反して所謂《いはゆる》勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。
 正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母は嫡室《てきしつ》飯田氏益である。小字《をさなな》は鉄三郎と云つた。
 二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄※[#「王+民」、第3水準1−87−89]薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄※[#「王+民」、第3水準1−87−89]申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。
 蘭軒は二十三日に至つて病|愈《い》え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。下《しも》に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時|達《たつし》と云つたものと見える。
 夏は蘭軒が健《すこやか》に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
 秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此|簡牘《かんどく》は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些《ちと》の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。

     その五十八

 茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下《しも》の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛《かけず》と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔《わづか》四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由《そしいう》は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里|定而《さだめて》又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園《もくわうゑん》主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介|蠣崎《かきざき》君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋|如何《いかゞ》。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾《やまひ》にもや候覧《さふらふらむ》。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候|塙書之事《はなはしよのこと》大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻|宛《づゝ》四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
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