蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子|棠助《たうすけ》五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。

     その五十六

 文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒は此《かく》の如く忽ち病み忽ち※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》ゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。
 二三月の交であらう。蘭軒の外舅《ぐわいきう》飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、故《ことさら》に此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵|信方《のぶかた》の師は恐くは冷泉為泰《れいぜいためやす》であらう。祝髪後等覚《しゆくはつごとうがく》と云つた人である。
 三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」
 印南《いんなん》、杏坪《きやうへい》、文河《ぶんか》、竹里《ちくり》は既に上《かみ》に見えてゐる。文河は定良《さだよし》、竹里は遷《せん》である。
 石田梧堂、名は道《だう》、字《あざな》は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池の畔《ほとり》にあつたらしい。
 鈴木|暘谷《やうこく》は名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。
 諸葛《もろくず》某は或は琴台《きんたい》ではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。
 此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》んで作つた詩がある。謙斎は其人を詳《つまびらか》にしない。蘭軒の交る所に前に柴担人《さいたんじん》がある。人物の同異未詳である。
 夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白※[#「米+參」、第3水準1−89−88]々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得※[#「くさかんむり/純」、7巻−114−下−10]糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖の辺《ほとり》である。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしは姑《しばら》く蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものと看做《みな》して置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。
 五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府|先手与力《さきてよりき》の隠居であつた。先妻|紀《き》平洲の女《ぢよ》は夫に先《さきだ》つて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。
 豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人|樺島石梁《かばしませきりやう》がこれに銘し、阿部侯|椶軒《そうけん》が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華《かうげ》を供したものはわたくし一人ださうである。
 樺島石梁、名は公礼、字《あざな》は世儀《せいぎ》、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。

     その五十七

 此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂|白卿《はくけい》と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上《かみ》に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上《ほとり》であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔《ほとり》であつたなら、両家は相|距《さ》ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩
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