う。敷地は借地であつた。「借地開園方十歩」の句がこれを証する。家は前より広くなつたが、随つて相応に費用もかかつた。「今歳掃空強半禄、書斎薬室得微寛」の句がこれを証する。

     その五十五

 此年文化五年の夏蘭軒は墨田川に納涼《すゞみ》舟を泛べた。「夏日墨水舟中。抽身忙裏恰逢晴。潮満長江舟脚軽。西土帰来猶健在。復尋鴎鷺旧時盟。又。回風小艇自横斜。夏月遊宜在水涯。蘆岸柳堤行欲尽。一村開遍合歓花。」自註に云く。「余在西崎二年。帰後已一年。此日始来此地。顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後の秋の詩があるのを見て知られる。今「在西崎二年」と云つてあるのは、所謂《いはゆる》足掛の算法である。又「帰後已一年」と云つてあるのも、十二箇月に満ちた一年とは看做《みな》されない。したがつて切角の自註が考拠上に大《おほい》なる用をばなさぬのである。只|前《さき》に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。
 夏の詩の後、秋の詩の前に、植村|貞皎《ていかう》の大坂に之《ゆ》くを送る詩がある。「源士明将之浪華、臨別詩以為贈。瀕海浪華卑湿郷。為君将道避痾方。酒宜微飲魚無飽。食飼案頭不撤姜。」医家の手に成つた摂生の詩である。
 秋に詩が四首ある。「秋晴」の五律の自註を見るに、此秋は雨のために酒の舟が入らなかつた。「今歳夏秋之際、霖雨数月、酒舸不漕港、以故都下酒価頗貴」と云ふのである。武江年表を検するに、閏《うるふ》六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。
「秋園詠所見」の詩の中に藤袴《ふぢばかま》の一絶がある。「蘭草。世上栽蘭各自誇。蜂英菖葉映窓紗。要知楚※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]真香物。請看簇生浅紫花。」蘭軒は後文政四年に長子|榛軒《しんけん》と倶に再び蘭草を詠じた。「蘭花。元是清高楚※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]芳。細花尖葉露※[#「さんずい+襄」、第4水準2−79−48]々。奈何幽致黄山谷。不賞真香賞贋香。」此詩の下《しも》に自註がある。「世以幽蘭。誤為真蘭。西土已然。真蘭俗名布知波加末者是也。白楽天詩。蘭衰花始白。孟蜀韓保昇云。生下湿地。葉似沢蘭。尖長有岐。花紅白色而香。即是合所謂布知波加末者。而山谷云。一幹一花為蘭。是今所謂幽蘭也。世人襲誤。真蘭遂晦。但朱子楚辞辨証云。古之香草。必花葉倶香。而燥湿不変。故可刈佩。今之蘭※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]。但花香。而葉乃無気。質弱易萎。不可刈佩。必非古人所指。陳間斎亦云。今人所種如麦門冬者。名幽蘭。非真蘭也。朱陳二説。可謂為真蘭禦侮矣。今余詩聊寓復古之意云。」蘭軒と同じく此復古を謀つたものには狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎がある。「楚辞にいふらには今云ふ藤ばかま今いふ蘭《らに》は何といふらむ」の三十一字は、その嘗て人に答へた作である。しかし此の如く古の蘭草のために冤を洗ふことは、蘭軒※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎等に始まつたのでは無い。単にわたくしの記憶する所を以てしても、貝原益軒の如きは夙《はや》く蘭の藤袴なることを言つてゐた。
 蘭軒は道号に蘭※[#「くさかんむり/間」、第4水準2−86−80]等の字を用ゐたので、特に蘭草のために多く詞を費すことを厭はなかつたのである。村片相覧《むらかたあうみ》の作つた蘭軒の画像には、背後の磁瓶《じへい》にふぢばかまの花が插してある。村片は信階《のぶしな》信恬《のぶさだ》二世の像を作つた。蘭軒の像の事は重て後に言ふこととする。
 わたくしは※[#「くさかんむり/姦」、7巻−113−上−2]斎《かんさい》詩集に阿部侯|棕軒《そうけん》の評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。
 冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃し※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]《しよ》を失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。
 蘭軒の病は十一月後に※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。
 此年
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