《ひたひ》の隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片は古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《こたう》と号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵の荏薇《じんび》贈答に見えてゐる。
わたくしは此に上《かみ》に云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々は下《しも》の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒《しんけん》の乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼|四時《よつどき》前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。
その五十四
此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物《ねりもの》を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来|駢※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]《へんてん》群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間|許《ばかり》を踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、穉《をさな》い榛軒《しんけん》が泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒の棠助《たうすけ》が四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。
蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−109−下−10]斎《かんさい》詩集には客崎《かくき》詩稿の次に、森|枳園《きゑん》の手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしは姑《しばら》く右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。
蘭軒は八九月の交に病んで、次で病の痊《い》ゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。
季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更※[#「不/見」、第3水準1−91−88]菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」
源士明《げんしめい》は植村氏、名は貞皎《ていかう》、通称は彦一、江戸の人である。駿卿《しゆんけい》は木村|定良《さだよし》、子善《しぜん》は頼遷《らいせん》で、並に前に出てゐる。
蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或|俚諺《りげん》の来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中|香々《かう/\》といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々《ようちゆうのかう/\》といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家|聚訟《しうしよう》の資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠の南留倍志《なるべし》系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此|源委《げんゐ》の一線上に占位すべき著述である。
頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。
文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」
三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集に載《の》する二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西※[#「くさかんむり/弗」、第3水準1−90−75]地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相|距《さ》ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であら
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