くり」、第3水準1−91−93]堂、名は昌《しやう》である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水《せいすゐ》が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]旧自識劉郎」の句がある。
長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上《かみ》に見えた長川|正長《せいちやう》と同人か異人かを詳にしない。
張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何《いか》に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢《ちんゐけん》も或は清客か。
程霞生赤城、一|字《じ》は相塘《しやうたう》である。屡《しば/\》長崎に来去して国語を解し諺文《げんぶん》を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人|秦星池《はたせいち》は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金《りくじよきん》と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
江稼圃《こうかほ》、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水|惟完《ゐくわん》を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪|惟柔《ゐじう》を江戸に見たのである。
蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留《えんりう》したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父|信階《のぶしな》が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡《はふし》して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃《こじ》併せ喪つたのである。
信階の肖像は阿部家の画師|村片相覧《むらかたあうみ》の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広い※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]
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