斎《かんさい》詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》し、始て諸国に同名の黌舎《くわうしや》があつたことを知つた。
 長崎の明倫堂は素《もと》立山にあつたが、正徳元年中島|鋳銭座址《ちうせんざし》に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修《ちようしう》することになつてゐた。
 蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
 蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂に訪はれた作との間に介《はさ》まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁《しやうてい》の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑《しばら》く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
 さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
 蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富《なはふ》、字大賚《あざなはたいらい》」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
 向井元仲は霊蘭の裔《すゑ》である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪《ちはつ》して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙《うつ》り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字《をさなな》は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町《ろてい》と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女|千子《せんこ》が俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]軒《りくちんけん》南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下《しも》に「先生|名文熈《なはぶんき》、字季績《あざなはきせき》、於音韻学尤精究、釈文雄《しやくぶんゆう》以来一人也」と註してある。
 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須《ま》たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然《くわつねん》、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂《しやうけいだう》と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。

     その五十三

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事《なにごと》を做《な》したか、わたくしはこれを詳《つまびらか》にすることが出来ない。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−105−下−13]斎《かんさい》詩集を検するに、その交つた人々には徳見|※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《じんだう》があり、劉夢沢《りうむたく》があり、長川某がある。又|春風頼惟疆《しゆんぷうらいゐきやう》の来り訪ふに会した。清人《しんひと》にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴《ちやうしうきん》がある。次に程赤城《ていせきじやう》があり、胡兆新《こてうしん》があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実《りくしうじつ》といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田|道夫《だうふ》さんの話には江芸閣《こううんかく》も亦蘭軒と交つたさうである。
 徳見※[#「言+仞のつ
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