かたはら》に唐画目利《たうゑめきゝ》と朱書してある。
 鳳嶺の事は田能村竹田《たのむらちくでん》の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝《をし》まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、7巻−102−上−1]※[#「夬+鳥」、第4水準2−94−4]簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
 画録に載《の》する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本《もと》小原氏、京都より長崎に徙《うつ》つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録《とせきさゝろく》には慶山の子は勘八、其|裔《すゑ》は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
 これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長《ながかはせいちやう》の菊の詩に次韻した。正長、字《あざな》は補仁《ほじん》、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
 十月三日に蘭軒は文筆峰《ぶんひつほう》に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
 十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂《いはゆる》家附の女《むすめ》である。年は五十七歳であつた。法諡《はふし》を快楽院是参貞如《けらくゐんぜさんていによ》大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱※[#「尸+徙」、第4水準2−8−18]之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗※[#「霄」の「雨」に代えて「竹かんむり」、第3水準1−89−66]之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡《たゞ》すに意があつたのではなからうか。
 曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢《きせ》、安佐《あさ》の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉《をさな》かつたことは知られるが、蘭軒と孰《いづれ》か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
 曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。

     その五十二

 文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《とくみじんだう》を接待した時の詩の註に見えてゐる。
 此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠《さくてん》である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋《たかなべ》等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※[#「くさかんむり/姦」、7巻−103−下−12]
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