。
第四十日。「廿九日卯時発す。能方《のうかた》川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山|垣墻《ゑんしやう》のごとく東南に突兀《とつこつ》たる山あり。香春山《かはらやま》といふ。(春はらと訓《よむ》又同国に原田《はるた》といふ所あり、原をはると訓す、ゆゑ未詳《いまだつまびらかならず》。)一山みな黄楊《つげ》のみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山|元貞《げんてい》の家に宿。此日涼し。行程八里許。」
詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]驚客去隣家。」
その四十八
第四十一日は文化三年七月|朔《ついたち》である。「七月|朔日《ついたち》四更に発す。冷水《ひやみづ》峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫の※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]《つゑ》を石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。顧望《こばうする》に木曾の碓冰《うすひ》にも劣らぬ山形なり。六里|山家《やまが》駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻して蛭子神《ひるこのかみ》を造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川《せうれきせん》に傍《そう》て行く。右の方に巍然たるものは法満山《はふまんざん》なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名|竈山《かまどやま》といふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山の際《きは》の狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、浮堂《うきだう》、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日|安行僧都《あんぎやうそうづ》に勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川|隆景《たかかげ》筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(信恬《のぶさだ》按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多|画瓢坊《ぐわへうばう》の説に、明応七年|兵燹《へいせん》にかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にも焚《やけ》しこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。雁《がん》鴨《かも》※[#「さんずい+鷄」、第4水準2−94−45]※[#「勅+鳥」、7巻−95−下−7]《けいせき》群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。双竪幅《さうじゆふく》。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩は杜子美《としび》の詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。賈至《かし》の詩を山谷《さんこく》集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にして遵勁瀟灑《いうけいせうしや》たる行書なり。又|小楷普門品《せうかいふもんぼん》毎行十七字にして字大《じのおほきさ》五分|許《ばかり》楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏|竹秉炬《ちくへいきよ》を持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里|許《きよ》。」
竈山の条《くだり》に清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山に竈門山宝重寺《さうもんざんはうぢゆうじ》と云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲を千里《ちさと》のけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」
染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばか
前へ
次へ
全284ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング