神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣《いた》る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下|平戚《へいせき》の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚《じゆすゐへいせき》の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造《つくるところ》なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨《のぞみ》涼風|灑《そゝぐ》がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものは下《しも》の如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社《みやしろ》の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関の条《くだり》は貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后が艤《ふなよそほひ》せさせ給うた後、一夜の程に山が裂けて速鞆《はやとも》のせととなつたと云ふのである。此伝説と穴門《あなと》の語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」
その四十七
第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。乃《すなはち》※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]子亮蟹譜《ゆしりやうかいふ》に載する蟹殻|如人面《じんめんのごと》きものありと称するものなり。午後風|収《をさまり》雨|霽《はる》。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。柁工《たこう》三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟より上《のぼつ》て公事あり。畢来《をはりきたつ》て船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲に膠《かう》して甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとく後島《うしろのしま》はみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨|遽《にはかに》来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉の三門《みかど》に著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。黄檗《わうばく》福巌鉄文《ふくがんてつぶん》といふ元禄年中の僧の書なり。遒勁《いうけい》運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里|許《きよ》。」
註に所謂|黄帝《くわうてい》の曲が載せてある。貨狄《くわてき》と云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初に三叉《みつまた》、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。
詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一※[#「隻+隻」、7巻−94−上−5]洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」※[#「隻+隻」、7巻−94−上−7]洲《さうしう》は干珠満珠の二島である。
第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁|木屋《こや》の瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない
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