とし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海に傍《そ》ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」
 貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。
 詩。「宿福川駅、此日立秋。涼※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2−92−41]水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其※[#「やまいだれ+甫」、7巻−90−上−3]。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸に疾《や》むには至らなかつたらしい。
 第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半|富海《とのみ》(一名|戸《と》の海《み》)駅なり。駅|尽《つきて》山路にかかる。浮野嶢《うきのたうげ》といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢《さなたうげ》といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半|小郡《をごほり》駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉|傘《からかさ》のごとく花は径《わたり》八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
 浮野峠の下《もと》に又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌|各《おの/\》一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森|枳園《きゑん》の筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比《ちかごろ》江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。
 詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※[#「くさかんむり/渠」、7巻−90−下−14]清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」

     その四十六

 第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家《くしをうるいへ》多し。土人説に上古此地に大なる樟木《くすのき》あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名《なづ》く。其枝の延し所を涼木《すゞき》といひ(船木より四里)木末《こずゑ》の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末《きよすゑ》とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田《ちまちだ》といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里|許《きよ》。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。
 第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故|蓋《けだし》名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕《れんぐう》を食せしむ。味《あぢはひ》尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神《かふらたまたれのかみ》を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲《めぐり》三人抱余なり。皇后征韓の時|手栽《てづからうゑ》て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第《ていてい》補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内|義隆《よしたか》造作の古宮《ふるみや》なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又
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