肴を喫。勝景、源貞世、近来水府|長赤水《ちやうせきすゐ》説こと甚|詳《つまびらか》なり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家に次《やど》る。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里|許《きよ》。」
宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」
長赤水は長久保氏、名は玄珠、字《あざな》は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、洲屋《すや》、御床《みとこ》、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。
池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。
詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一※[#「隻+隻」、7巻−87−下−12]離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」
第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一に馬鹿谷《ばかだに》といふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆|松枝《まつがえ》青葉を束《つかね》て樊籬屋店《はんりをくてん》を作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。夫木《ふぼく》集中に詠ずる冰室《ひむろ》ならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」
黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世《さだよ》の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。
その四十五
第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。呼坂《よびざか》を経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつて閲《けみ》することを不許《ゆるさず》。呼坂は蓋《けだ》し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづから比目魚《ひもくぎよ》を裁切して蓼葉酢《りくえふさく》に浸し食せしむ。味《あじはひ》最妙なり。山路を経るに田畝|望尽《のぞみつき》て海漸く見《あらは》る。廿五町久米駅。廿四町|遠石《とほいし》駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中|影向石《えいかういし》といふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛び来《きたつ》て此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町|許《きよ》なり。浅井金蔵谷祐八(金蔵|字《あざなは》子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがご
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