詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭《かちがしら》を以て終つたのである。
山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延《ひ》いて※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−85−上−6]斎《かんさい》詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎《かくき》詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下《しも》の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風|杏坪《きやうへい》の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰《いづれ》か先孰か後なるを詳《つまびらか》にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
しかしこれは蘭軒と頼氏|長仲季《ちやうちゆうき》との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審《つまびらか》にすることが出来ない。
松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒《にはか》に紀行の此段を読んで、又|微《すこ》しく伊沢氏が曾て山陽を舎《やど》したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須《もち》ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈《と》け得るのである。
且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各《おの/\》心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬《しゆかん》とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦《たと》ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩《いしう》の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
蘭軒が春水を訪うた日に、偶《たま/\》竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎|元鼎《げんてい》である。
その四十四
蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路《たみち》に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中|潮斥《てうせき》の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風|截瘧《せつぎやく》の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲|盤回《はんくわい》して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠《くわんじんし》あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実《ちかざね》といふ者天神七代を此山に祀《まつる》。年歴|久《ひさしう》して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上《のぼつ》て酒
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