軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世《みなもとのさだよ》豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在《あらず》。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半|許《きよ》。」
貞世の道ゆきぶり、厳島詣《いつくしままうで》の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野|篁《たかむら》の郷《きやう》なり。辰後一里半|田万里市《たまりいち》。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱《せんさう》と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次《やど》る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来|轎前《けうぜん》に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年|災《わざはひ》にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵《みさゝぎ》なりといふ。此日暑甚し。晩間|霎雨《せふう》あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂《かいきんさ》おほし。(海金砂方言|三線葛《さみせんくず》。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半|海田《かいた》駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上《かみ》稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連《つらなる》。万里蒼波一|鬨烟家《こうのえんか》みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次《やど》る。市に入て猿猴橋《ゑんこうばし》京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪《じんしよにたへず》。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側《かたはら》なり。)春水|在家《いへにあり》て歓晤。男子賛亦助談。子賛名|襄《のぼる》、俗称|久太郎《ひさたらう》なり。次子竹原へ行て不遇《あはず》。談笑夜半にすぐ。月|升《のぼり》てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。
その四十三
所謂《いはゆる》松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子《せいし》侍読として屡《しば/\》江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守|斉賢《なりかた》である。備後守|重晟《しげあきら》が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側
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