の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森|枳園《きゑん》の手に出でたものらしい。
 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済《あなのわたり》は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。

     その四十一

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原《もと》の名|秋円山《あきまるやま》である。道之上《みちのうへ》城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
 茶山が当時の身分は、前《さき》に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
 蘭軒を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室|門田《もんでん》氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》の子要助、名は万年《ばんねん》、字《あざな》は公寿《こうじゆ》である。汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]の※[#「木+便」、第4水準2−15−14]は司馬相如《しばしやうじよ》の賦に※[#「木+便」、第4水準2−15−14]南予章《へんなんよしやう》とあつて、南国香木の名である。
 酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵《くら》であらう。岩野は与三右衛門であらう。
 茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋|元助《もとすけ》方の徹宵の宴飲である。
 尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍《かたはら》に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童《かつぱ》の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵《くびす》を接したものである。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−81−下−9]斎《かんさい》詩集に神辺《かんなべ》で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是※[#「車+罔」、第3水準1−92−45]川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
 茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関《ぼぎうくわん》は即ち※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]示嶺《ばうしれい》であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」

     その四十二

 蘭
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