。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余《へいきはよ》をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部《いんべ》也、片上の少し西也、それより香登《かゞと》それより長船吉井川也」と註してある。
 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴《かふど》屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨|灑来《そゝぎきたり》数日にして乾渇を愈《いやす》がごとし。未後にいたりて霽《は》る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍《そ》ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮《きびつみや》の神符を貼《てふ》す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺《かんなべ》の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。

     その四十

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那《やすな》郡に属す。(古昔《こせき》穴国《あなのくに》穴済《あなのわたり》穴海《あなのうみ》和武尊《やまとだけのみこと》悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路《みちに》横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。※[#「土へん+巳」、第3水準1−15−36]橋《いけう》を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉《わたつ》て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具《そなふ》。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見《まみ》ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]示嶺《ばうしれい》にいたる。(一[#(に)]坊寺《ばうじ》といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱《ひでり》に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝|鞆《とも》までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人|名藉《なはせき》字《あざな》は元助《げんじよ》嘉樹堂といふ。好学《がくをこのみ》て雅致なり。品坐《ひんざ》劇談暁にいたりて二人に別る。此日|甚暑《じんしよ》にあらず。行程九里|許《きよ》。」
 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余
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