りも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」
 菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなる仮殿《かりとの》なりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」
 飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」
 詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]。」

     その四十九

 第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里|轟《とゞろき》駅。一里半|中原《なかはる》駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里|堺原《さかひはら》駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内に高麗烏《かうらいがらす》あり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一に徒烏《いたづらがらす》と名づく。此辺往々ありといへり。形状全く喜鵲《きじやく》と覚。一里半佐賀城下。古河《こが》新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分|許《きよ》横五六分。味《あぢはひ》烏賊魚《いか》に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の鵲《じやく》たること蘭軒の説の如くなるを知つた。
 第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南に多羅嶽《たらがたけ》、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山《ちふりやま》等四面に崔嵬繚繞《さいくわいれうぜう》して雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大の樟木《くすのき》あり。活木《くわつぼく》なり。就て馬頭観音を彫刻せり。半幹《はんかん》也。堂を構て梢葉《せうえふ》その上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にして味《あぢはひ》淡し。脚気、疝気を愈《いやす》といへり。三里(五十丁一里)嬉野《うれしの》駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」
 詩。「嬉野。※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1−90−29]輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」
 第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村の※[#「土へん+侯」、第4水準2−5−1]《こう》に十|囲許《ゐきよの》樟木あり。中|空朽《くうきう》の処六七畳席を布《し》くべし。九州地方|大樟《たいしやう》尤多しといへども此《かくの》ごときは未見《いまだみず》。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里|薗木《そのき》駅(一に彼杵《そのき》と書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。鏑木雲潭《かぶらきうんたん》(名祥胤、字三吉《あざなはさんきつ》、河西野《かせいや》の次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤|及暁《あかつきにおよび》てかへる。此日暑甚し。行程八里許。」
 欄外に森|枳園《きゑん》の樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人|囲《めぐり》を第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。
 鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。
 河西野は市河寛斎で、其長子が米庵《べいあん》三|亥《がい》、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名は世胤《せいいん》、字は君冑《くんちう》である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介|純昌《すみよし》
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