の才を愛した。「其辞不唯艶麗。亦能俊抜焉。其識不唯該博。亦能卓超焉。乃謂斯人実一世之雄。」既にして太平志を読み、又四編五編を読んで文品の低下に驚いた。「豈半塗而天奪之才乎。抑始有所倩。後失其人乎。」東京繁昌記は則《すなはち》初《はじめ》よりして疎拙であつた。「呉々も馬鹿馬鹿敷書に而は御坐候也。」
 藤陰の書牘と繁昌記とは六月七日に棠軒の手に到つた。「七日。(六月。)晴。三富甚左衛門来。東京関藤先生より書状及開化繁昌誌二冊到来、右持参之事。」藤陰の書と贈《おくりもの》とは河村大造より三富甚左衛門を経て棠軒に達したのである。阿部家の家従三富の事は既に上《かみ》に出でてゐる。

     その三百六十三

 わたくしは此より甲戌六月七日に棠軒が関藤藤陰の贈《おくりもの》を得た後の日録を抄する。
 棠軒は六月八日に家禄「十四石七斗」を奉還せむことを請うて、十五日に許された。「八日。(六月。)微雨。組頭熊田某へ行。終身禄奉還一件也。爰許戸長吉津へ右願書出す。」「十五日。雨。午後晴。終身禄奉還之儀御聞届相成候段戸長より申来。」熊田は己巳席順の「二十俵三人扶持、熊田保平、五十」若くは「二十俵三人扶持、物産役、熊田臨蔵、四十六」であらうか。吉津は小八郎と称した。
 七月に棠軒は子|徳《めぐむ》を算術の師前川某の許に遣つた。「廿三日。(七月。)晴。風。徳数学前川へ入門。」四たび其師を更へたのであらうか。前川は未だ考へない。
 十月に棠軒は「公債証書買上願」を呈出した。「九日。(十月。)晴。去七日出願書戸長へ出。十日進呈。同十一日御聞届。」七日に戸長役場に出し、十日に県庁に達し、十一日に裁可せられたのである。日録には全文が載せてあるが、今略する。「高百円に付八十円に」買ひ上げてもらひたいと請うたのである。宛名は「小田県権令矢野光儀殿」と書してある。光儀《くわうぎ》は竜渓文雄《りゆうけいふみを》さんの父ださうである。是月棠軒は外史の講義を終つた。「廿八日。陰。夜雨。外史講義一了。」
 十一月十五日には棠軒が養父榛軒の二十三回祭を行つた。「十五日。(十一月。)晴。風。時々雨。当日府君二十三回祭。飯田夫婦、貞白、東安、半、全八郎招請飲。」その「祭」と云ふより推すに、此年より神祭の式に遵《したが》ふこととしたらしい。十五日は歿日の前日である。来客中「半」は服部氏、是より先七月中に「半来」(十五日)の文がある。
 二十八日に棠軒は県庁に赴いて家禄に換へた「金百二十四円二銭五厘」を要請した。「二十六日。(十一月。)陰。微雨。午後晴。来廿八日小田県に而家禄奉還金御渡しに付受取証書。」(文は略する。)「廿八日。晴。小田県へ奉還金為受取、未明より人力車に而行。」県庁が此日に金を交付しなかつたことは、後の記に徴して知るべきである。
 十二月の日録には抄すべき事が無い。此年棠軒は「明治甲戌集」と題した詠草一巻を遺してゐる。「父君の二十三回忌に。はたちあまり三とせ経ぬれど今も猶さながら見ゆる父の面影。」詠艸は良子刀自の蔵する所である。
 此年磐の一家は東京にあつて寄留の所を変へた。良子刀自所蔵の文書に、「明治七年八月十日第一大区十四小区小網町四丁目五番地借店に寄留替をなす」と云ふ文がある。
 此年東京にある森枳園が「蘭軒遺稿」一巻を刊行した。時に枳園は年六十八であつた。富士川氏は三種の本を蔵してゐる。第一は漢文に国文を交へた草稿二巻で、蘭軒が末に下《しも》の語を書してゐる。「右之通に先々かたづけ候へども、如何可有御坐や。御削正奉願上候。医籍考には御説も御坐候事にや。委細御教示奉願上候。信恬拝。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭先生。」第二は旧稿中の国文を漢訳したもので、是も亦二巻を成してゐる。第三は枳園校刻の本一巻である。巻首に下の文がある。「伊沢信恬。字澹甫。号蘭軒又※[#「くさかんむり/姦」、8巻−318−上−9]斎。通称曰辞安。其著書有数十種。遺稿為其一。而二十年前刊行半成。適世事紛冗。西遷東移。舟車運漕。桜槧多亡失。今所拾摘二十条。僅々存九※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]之余香爾。明治甲戌第十月。枳園森立之。(印二。曰立之。曰壬申進士。)」全巻|凡《おほよそ》四十九|頁《けつ》である。「伊沢氏酌源堂図書記」の印記がある。
 此年棠軒四十一、妻柏四十、子徳十六、三郎五つ、女長(津山碧山妻)二十一、良十九(以上福山)、磐二十六、弟信平(宗家養子)十四、姉国(狩谷矩之妻)三十一、妹安二十三、柏軒の継室春五十であつた。

     その三百六十四

 明治八年は蘭軒歿後第四十六年である。棠軒は旧に依つて歳を吉津村の家に迎へた。「家家臘尽時。内感歳華移。安識郷人羨。全依祖考慈。」戯《たはむれ》に「家内安
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