区麻布南日窪町医師伊沢信崇方」即所謂鳥居坂の宗家である。当時|信崇《しんそう》は年三十四であつた。
静岡に於ける留守心得は「呉服町一丁目多喜後家ひさ方比留正方」である。
十三日。磐は家族を率《ゐ》て静岡を発し、「富士郡前田村加藤要蔵方」に宿した。
十四日。磐一行は前田村を発し、「三島駅世古六大夫方」に宿した。
十五日。一行は三島を発し、「小田原駅三河屋」に宿した。
十六日。母春、妹安は小田原に駐《とゞま》つて、磐等は藤沢に至り、相生屋《あひおひや》に宿した。
十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵《いた》つた。
二十二日。磐は全家《ぜんか》の塩田真の許に寄留せむことを、「第一大区十一小区扱所」に稟請した。
二十四日。磐は「電信寮自費修行願」を作つて塩田真に託した。電信技手たらむと欲したのである。
二十八日。「仙次郎小田原より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いたのであらう。
四月一日。「平三郎鳥居坂本家信崇の養子となり、名を信平と改む。」磐の弟の宗家に入つたのは此時である。当時養父信崇三十四歳、養子信平十三歳であつた。
三日。「全家麻布南日窪町町医伊沢信崇方へ寄留すとの届を小区役所に出す。」寄留籍が塩田氏より鳥居坂伊沢氏に移されたのである。
三四月の間、棠軒日録には事の抄するに足るものが無い。強て求むれば、津山碧山(四月廿二日)岡寛斎(同二十九日)が棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。
その三百五十八
わたくしは此より明治癸酉五月以後の棠軒日録を抄する。
「五月一日。晴。長女河合へ遣《つかは》す。去《さんぬる》十七日友翁旅中病死之悔。」友翁は飯田安石の女婿銀二郎の生父であつたらしい。然らば銀二郎は前年壬申九月三日に生母を失ひ、今又生父を失つたのであらう。旅中とは何《いづ》れの地にあつたのか不詳である。
「六日。晴。河合友翁葬送に付、名代|徳《めぐむ》遣す。」
「十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送|見立行《みたてにゆく》。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である。五十川※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《いかがはじんだう》撰の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と云つてある。按ずるに歿日は十三日、葬日は十四日であつただらう。墓誌に又かう云つてある。「君豪放。不肯為小廉曲謹。以投衆人耳目。而於医事則好古法。微密精到。不与今世医同流。謂苟為而止者非医也。傍好刀剣書画法帖。亦必以古。往々傾貲不顧云。(中略。)初良徳公之疾。衆医不以為意。独君憂之。屡上医案。不省。後果若其言。以是人皆服君卓見。」良徳公《りやうとくこう》は阿部正弘である。忠琢の歿後には妻|帰山《かへりやま》氏が遺つた。忠琢は己が古法帖を好んだので、子碧山をして小島成斎の門に入らしめたのであらう。
「十五日。晴。津山へ悔行《くやみにゆく》。」
「廿二日。晴。真野《まの》より被招行飲《まねかれゆきのむ》。此日陶後十七回忌。」真野竹亭の子|陶後頼寛《たうごよりひろ》は安政四年四月廿三日に歿したから、陽暦の忌日は五月十九日である。按ずるに改暦後、月を変へて日を変へずに五月二十三日とし、所謂|※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》に客を招いたのであらう。当時の主人は陶後の子にして幸作の父なる竹陶兵助《ちくたうひやうすけ》五十四歳である。
「廿七日。晴。慧観童女七回忌※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜。貞白|来飲且飯《きたりいんかつはんす》。」慧観は棠軒の女|鏐《かね》である。慶応三年五月二十八日に夭した。
「十三日。(六月。)晴。風。吉田へ行、同道飯田へ寄。同家へ過日河合同居也。」飯田安石は女婿河合銀二郎の家族を迎へて同居せしめた。吉田は画師|洞谷《どうこく》である。
八月には棠軒の妻|柏《かえ》が大に病んだ。
「十四日。時々雨。夜大雨。四五日来お柏持病脳痛不出来之処、今暁尤甚。四肢|厥冷《けつれい》、脈伏寒戦に至る。」此より医師石川貞白、飯田安石、三好東安、河村意篤、内田養三等が来り診し、又|正覚院《しやうがくゐん》と云ふものが来て加持し、安石の女にして河合に嫁したお升《ます》、「吉田老母」等が夜伽のために来り宿した。吉田老母は洞谷の母であらう。「廿一日。陰雨《いんう》。柏子脳痛十八日来|漸々《ぜん/\》緩和に赴く。」「三十一日。晴。吉田老母今日迄逗留之処、今夕より帰宅。」柏の病は愈《い》えたのである。
「六日。(九月。)洞谷来飲。同人悴|直《なほし》今日より入学。」吉田洞谷の子直が棠軒の弟子となつた。棠軒弟子の入門は公私略
前へ
次へ
全284ページ中273ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング