ある。
「廿二日。晴。番入。以来隔日当番可相勤旨。養竹出府御免、支度出来次第帰藩被仰付。伊東大典医伺に罷出、初而面謁す。」枳園養竹は棠軒の来りしが故に福山に帰ることを許された。伊東大典医は冲斎玄樸であらう。名は淵《えん》、字《あざな》は伯寿、本|御厩《みうまや》氏、肥前の人である。蘭医方をジイボルドに受けた。幕府は安政五年に冲斎等を挙げ用ゐるに及んで、前《さき》に阿部正弘が老中たる時に下した禁令を廃したさうである。事は松尾香草の近世名医伝に見えてゐる。冲斎は庚午の年に七十一歳になつてゐた。
「廿三日。晴。風。養竹当分之内御差留被仰付。同人同道|団坂蕎店《だんはんけうてん》に而《て》飲《のむ》。」枳園は一旦福山に帰ることを許されたのに、又抑留せられた。団坂蕎店は団子坂の藪蕎麦である。
「五日。(三月。)雨。森同道狩谷へ行飲。当時弘前邸内屋敷住居なり。」狩谷矩之が当時既に本所横川邸に移つてゐたことが、此に由つて証せられる。
「十二日。陰。午後|微晴《すこしはる》。森氏御用相済近日帰藩可致旨被仰付。」
「十六日。微雨。森氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔《はうざん》江戸を発したのである。
「晦日《つごもり》。雨。御扶持受取、五人半扶持、米八斗二升五合、代金九両三分銭一貫八百九十三匁、雑用代金一分二朱。」此文と前日の「御内々月給金五両受取」と云ふ文とを合せ考へて、阿部家の棠軒に対する待遇を知るべきである。前日の文は特に抄せずに置いた。
「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日|井戸妙《ゐどたへ》女病死之旨申来。」蘭軒の女長の夫井戸応助に子勘一郎と女《むすめ》二人とがあつて、後者中姉は関根氏に嫁し、妹は徳安の許にゐたことが文久三年の徳安の親類書に見えてゐる。妙は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙《うつ》つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は既に日録に見えてゐた。
その三百五十一
わたくしは棠軒日録を抄して既に庚午四月六日に至つてゐた。此より其稿を続ぐ。
「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父|信階《のぶしな》の養母にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保|主水《もんど》は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒は当時の主水と往来してゐたのである。是日棠軒は福山の家人の書を得た。書は「三月十九日出」であつた。福山の書信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに驚いたが、是は異例であつた。後には四月廿二日に福山を発した書が五月|朔《さく》に達してゐる。即ち八日後である。
「十一日。(五月。)夕雨。知事様御事|去《さんぬ》る五日福山表御発船被遊、昨夕丸山邸へ御著被遊候。」阿部|正桓《まさたけ》の入京である。後三日、十四日に「御上大君為御機嫌御伺御出被遊候」の文がある。正寧《まさやす》を石原に省したのである。
「七日。(六月。)微晴。権少参事村上半蔵より申来《まうしきたる》如左《さのごとし》。然者《しかれば》貴様儀御隠居様御不快為御看病出府被仰付候処、更に在番被仰付候旨、創殿《はじむどの》被仰渡候間、御談《おんだんじ》申候、以上。六月七日。尚々御隠居様御看病之儀、三好東安同様申合御介抱申上候様被仰付候。」棠軒の逗留が在番の名義に改められたのである。村上半蔵は己巳席順に「百三十石」と註してある。創は岡田氏。
「十九日。晴。浅田宗伯|伺出《うかゞひにいづ》。」正寧が浅田栗園を請じたのである。以下|復《また》抄せない。
「廿三日。夕雨。玄道来。」棠軒は入京以来殆日ごとに清川氏と往来してゐる。しかし「玄道」の称は始て此に見えてゐる。故《もと》の安策が父の称を襲《つ》いだのである。
「廿九日。夕雨。雷鳴。今日より詰切被仰付。」正寧の病|革《すみやか》なるが故である。
「七月朔日。晴。暮六時御絶脈被遊候。」正寧の捐館《えんくわん》である。年六十二。正精の子、正弘の兄、正教正方の父である。
「三日。雨。冷気甚。暮時御入棺。」正寧の斂《れん》である。
「五日。微雨。御隠居様昨卯上刻御逝去被遊候に付、為伺御機嫌《ごきげんうかゞひとして》今五日四時より九時迄之内、改服に而出仕可致旨。丸山御住居へ出御謁並手札差出。」正寧の発喪である。
「十日。晴。夜雨《やう》。今朝御出棺。西福寺《さいふくじ》自拝罷出《じはいまかりいづ》。」正寧の葬《はうむり》である。西福寺は浅草新堀端。
「十三日。晴。」是日棠軒は長谷寺《ちやうこくじ》に詣でた。其記に「鳥居坂へ寄、午飯」の文がある。宗家伊沢は幕政の時より居を徙《うつ》さずにゐるのであつた。当主|信崇《しんそう》は三十一歳であつた。
「五日。(八月。)雨。常徳院様御三十五日御当日に付、御遺物頂戴被仰付。如左。金巾《かなきん》御紋付御小袖一つ、※[#「
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