琢の家には、当時七十四歳の老父|忠琢成器《ちゆうたくせいき》が猶堂にあつた。忠琢は本伊藤氏、寛政九年に上総国市原郡高根村に生れた。父を義勝《よしかつ》と云ふ。五十川※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《いかがはじんだう》の撰んだ墓誌に、「諱義勝第二子、幼孤、長来江戸、従樗園杉本翁学医、業成、嗣福山侯侍医津山氏、既而名声大起、累得俸廿五口」と云つてある。忠琢は福山の津山氏の養子となつたのである。其師杉本氏|樗園《ちよゑん》、名は良《りやう》、字《あざな》は仲温《ちゆうをん》、一|字《じ》は子敬《しけい》である。池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交を渝《か》へなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎《あさかごんさい》の樗園の平生を記したのを見た。樗園と艮斎とは、少時同く柔術を松宮|柳囿《りういう》に学び、昵《したし》むこと兄弟の如くであつた。艮斎は樗園の事を叙して、「君有膂力、技亦抜群、雖※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]顱依様、而髪五分、以示勇猛状、時或酔後夜行、途次往々顛※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]人以為快」と云つてゐる。後二人は相約して志を立て、節を折つて書を読んだのださうである。わたくしはこれを読んで、京水が否運に遭つた時、樗園の義侠に負ふ所のあつたことを想見する。又中根香亭の記する所を見るに、樗園は善く琴《きん》を鼓した。其伝統は僧心越、杉浦琴川、幸田|親益《しんえき》、宿谷空々《しゆくだにくう/\》、新楽閑叟《しんがくかんそう》、杉本樗園である。今樗園が碧山の父の師たるを言ふに当つて、聊《いさゝか》前記の及ばざる所を補つて置く。
 さて碧山の父忠琢を養つて子とした所謂「福山侯侍医津山氏」とは誰か。福田氏はその長子刀自に聞く所のものを書して、特にわたくしに寄せてくれた。津山宗伯、名は義篤《よしあつ》、初|厚伯《こうはく》と称した。宝暦五年の生である。幕府の医官山崎宗運に師事し、宗字を贈られて宗伯と改めたと云ふ。按ずるに宗運は宗円ではなからうか。明和武鑑に「寄合医師、二百俵、元誓願寺、山崎宗円」がある。宗伯は阿部|正倫《まさとも》に仕へて、三たび駕に随つて福山に赴いた。菅茶山とは親善であつたと云ふ。茶山より少《わか》きこと七歳、蘭軒の父|信階《のぶしな》より少きこと十一歳であつた。宗伯は相貌魁梧で、克《よ》く九十余歳の寿を保つたさうである。是が碧山の養祖父である。
 碧山の父忠琢は養父宗伯の後を承けて阿部家の侍医となつた。※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂が「歴事六公」と書してゐる。六公とは正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓であらう。然らば忠琢は蚤《はや》く十五歳|許《きよ》にして正精に仕へたものと見える。正精の死は文化九年忠琢十六歳の時に於てしたからである。
 忠琢は帰山《かへりやま》氏を娶《めと》つて四子六女を挙げた。長男伊之助の生れたのは、文政九年忠琢三十歳の時である。伊之助、名は義淳《よしあつ》、後|義方《よしかた》と改めた。経を安積艮斎に学び、又筆札を善くし、章斎と号した。僧となつて越後国蒲原郡見附在小栗山村真言宗不動院に住し、明治二年二月十三日に父に先《さきだ》つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

     その三百五十

 わたくしは津山碧山の家世を略叙して、祖父宗伯義篤、父忠琢成器、長兄章斎義方の名を挙げた。章斎には安積艮斎の手批《しゆひ》を経た詩稿が家に蔵してある。わたくしは其詩を録せずに、中に見えてゐる応酬の人物を抄出する。先づ諸侯には柳川侯があつて、章斎は其如意亭に遊ぶこと数次であつた。柳川侯は立花|鑑寛《あきひろ》である。士人には小島成斎、岡西玄亭、皆川順庵、今川某、児島某、杉本望雲、岡田|徳夫《とくふ》、河添原泉《かはぞへげんせん》、中耕斎、玉置《たまき》季吉があり、僧侶には鳳誉、渓巌、綜雲がある。又師艮斎の家に往つて作つた詩、佐藤一斎の筆蹟の後に題した詩もある。
 章斎に次で生れた忠琢の次男宗琢は、十七歳にして早世した。碧山の仲兄である。
 次で天保十一年に碧山が生れた。小字《をさなな》は英三郎、中ごろ行三《かうざう》、後英琢と称した。忠琢四十四歳の時の子で、その生れた時章斎は十五歳であつた。宗琢は何歳であつたか不詳である。
 碧山は幼時句読を庄原文助に受けた。後経を安積艮斎、海保漁村に学び、説文を岡本况斎に学び、又筆札を小島成斎に学んだ。
 庚午二月二十日に三十七歳の棠軒が、七十四歳の忠琢と三十一歳の碧山とに会したことは既に云つた如くである。わたくしは此より棠軒日録を続抄する。
「廿一日。晴。大君初而拝診被仰付。」大君は不争斎正寧で
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