しきを得たるを認めた。就中柏軒は起首の「嗚呼問其名則医也」以下四十九字を激称して、漁村の肺腑中より出でたものとした。しかし諸人の間には異議も亦頗多かつた。遂に漁村に改刪を請ふべきもの数条を記した。さて此を誰に持たせて漁村の許へ遣らうかと云ふことになると、衆皆|※[#「走にょう+咨」、第4水準2−89−24]※[#「走にょう+且」、第4水準2−89−22]《しそ》した。当時漁村は文章を以て一世に雄視してゐたからである。幸に松田は漁村に親んでゐたので、此を持つて伝経廬《でんけいろ》を訪ひ、遂に定稿を獲て帰つた。
その三百三十四
わたくしは柏軒の門人を列叙して松田敬順道夫に至つた。柏軒の世は今を距《さ》ること遠からぬために、わたくしは柏軒の事を記するに臨んで、門人の生存者三人を得た。志村、塩田、松田の三氏が是である。就中松田氏の談話はわたくしをして柏軒の人となりを知らしめた主なる資料であつた。松田氏の精確なる記性と明快なる論断とが微《なか》つたなら、わたくしは或は一堆の故紙に性命を嘘《ふ》き入るゝことを得なかつたかも知れない。
医を罷めた後の松田氏は法官として猶世人の記憶に存してゐるであらう。しかし此人の生涯は余りに隔絶したる前後両半截をなすがために、殆どその同名異人なるかを疑ふ人のなきを保し難い。わたくしは下《しも》に姻戚荒木三雄さんの書牘を節録して、彼「洋医の軍門に降らなかつた」柏軒門人松田氏がいかに豹変したるかを示す。「貴著伊沢蘭軒中松田道夫君の事を記載有之、始て同君の前生活を知ることを得、一驚を喫候。判事松田道夫君は昔年津山の昌谷千里《しやうたにせんり》、先考荒木博臣等と同じく名を法曹界に馳せし者にして、某探偵談には松田君を擬するに今大岡を以てしたるを見しこと有之候。同君最後の職は東京控訴院部長と記憶いたし候。昌谷逝き、先考も亦逝き、今や存するものは唯松田君あるのみに候。昌谷の遺子は現に樺太庁長官たる昌谷彰君に有之候。松田君は令息道一君と共に湯島三組町の家に住し居られ候。道一君は久しく外務書記官にして、政務局第二課長たりしが、頃日《このごろ》駐外の職に転ぜられ候。」
次は岡西、成田、斎木、内田の諸人である。此数者中岡西氏は既に渋江抽斎伝に見え、又上文にも見えてゐる。今新に考へ得たる所二三を補ふに止める。
岡西養玄は明治二年の席順に「第六等席、十三人扶持、書教授試補、岡西養玄、三十一」と云つてある。然らば天保十年生であらう。「養玄」の右に「待蔵」と細書してある。然らば維新後一たび岡西待蔵と称し、後更に岡寛斎と称したものか。寛斎の死は明治十七年十月十九日に於てしたと云ふ。然らば享年四十六であつた。
成田成章は同席順の「第六等席、八人扶持、成田玄昌、三十七」か。然らば天保四年生である。
斎木文礼は同席順に「第六等席、八人扶持、斎木文礼、二十七」と云つてある。然らば天保十四年生である。
内田|養三《やうさん》は戊辰の東席順に「奥御医師、内田養三、三十五」と云つてある。然らば天保五年生である。
わたくしは最後に柴田氏の事を附載して置きたい。其一柴田常庵は上《かみ》に榛門の一員として事蹟の概略を載せた。其二は柴田方庵である。方庵の事は歴世略伝に見えない。わたくしは塩田氏の語るを聞いて始て方庵の名を知つた。下《しも》に仁杉《にすぎ》氏の云ふ所と合せ考へて方庵の何人なるかを明にしよう。
その三百三十五
塩田氏と仁杉氏との談話を参照するに、柴田方庵の事蹟には矛盾する所が多い。是は塩田氏の記憶のおぼろけなりし故であつたらしい。故に清川魁軒に聴いて正した。
方庵は柴田|芸庵《うんあん》の末弟であつた。準柏門の人で、唖科を業とした。晩年|采女町《うねめちやう》の清川邸内に住んで、浄瑠璃に耽つてゐた。妻は初なるものが品川の妓、後なるものが吉原の妓で子が無かつた。それゆゑ兄芸庵の第三子円庵を養つて子としたが早世した。明治十一年九月方庵は六十一歳にして歿し、其家は絶えた。芸庵の弟妹は修石、柵《しがらみ》、修庵、方庵の順序で、柵は清川※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の妻である。是が方庵の清川邸に住んだ所以である。
塩田氏は方庵と楊庵とを混同した。楊庵は芸庵の末子、小字《せうじ》八六、後の称忠平である。骨董店を海賊橋に開き、後箔屋町に移つて業務を拡張した。明治三十八年八月七日に友人某を訪ひて談話する際、卒然病を発して歿した。子は※[#「金+公」、8巻−257−上−13]太《しようた》で現に沼津にゐる。塩田氏は方庵が忠平と改称したと以為《おも》つてゐたのである。芸庵の子女は常庵、成庵、円庵、梅、多喜、国、千、忠平であつた。仁杉|英《えい》さんは多喜の子で、其妻は常庵の女歌である。
柏軒の歿
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