とが日に数次で、是は皆わたくしの負担であつた。」
「わたくしは特に某日の一往診を牢記して忘れない。それは柏軒先生が既に病に罹つて引き籠つてから後の事であつた。わたくしは某病家に往診した。其家は濠に沿うて迂回して纔《わづか》に達すべき街にあつた。往くこと未だ半ならざるに、大雷雨の至るに会した。わたくしは心にかうおもつた。此の如き日に遠路を行くは人情の難しとする所である。然るに自分は労を憚らずして往く。是は確に先生の一讚詞に値するとおもつた。さて事果てて後、還つて先生を見ると、先生は色|懌《よろこ》ばざる如くであつた。そしてかう云つた。足下は無情な漢《をとこ》だ。己が雷を嫌ふことは知つてゐる筈ではないか。かうして病気で寝てゐるのに、あの大雷が鳴つたのだから、足下はどこにゐても急で帰つて来てくれさうなものだ。何をぐづ/″\してゐたと云つた。なる程先生が生得雷を嫌ふことは、わたくしは熟《よ》く知つてゐた。それに嘗て躋寿館にゐて落雷に逢つてからは、これを嫌ふことが益甚しくなつてゐたのである。しかしわたくしは往診の途上では少しもこれに想ひ及ばなかつたのである。わたくしは先生の言《こと》を聞いて、その平生の豪快なるに似ず、嫌悪が畏怖となつたことを思ひ、又わたくしの如きものに倚依することの深厚なことを思ひ、覚えず涙を堕した。」
「柏軒先生の亡くなつた後、わたくしは猶伊沢氏に留まつてゐて、後事を経営し、次年元治元年に至つて始て去つた。わたくしの先生に従遊したのは前後七年で、伊沢氏にゐたのは八年である。」
「伊沢氏を去つた後、わたくしは江戸にあつて医を業としてゐた。幾《いくばく》もなく王政維新の時が来た。わたくしは山形へ移住すべき命を受けたが、忽ち藩主水野の家が江州に移封せられ、わたくしの移住は沙汰止になつた。当時わたくしは青山の水野邸にゐたが、後土地家屋を買つて遷《うつ》つた。それが此家である。」
志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]さんの談話は此に終る。柏軒が躋寿館にあつて落雷に逢つたことは、わたくしは既に渋江抽斎伝に記した。水野忠精の邸第《ていだい》は武鑑に「上《かみ》、三田二丁目、下《しも》、青山長寿丸、同、本所菊川町、同青山窪町」と云つてある。今の志村氏の家は千駄谷村|旧《もと》原宿町である。
その三百三十三
わたくしは柏軒の門人中より既に清川、志村二家の事を抽《ぬ》いて略叙した。次は塩田良三である。良三、後の名は真《まさし》である。わたくしが蘭軒の稿を起した時は猶世にあつたが、今は亡くなつた。
塩田|真《しん》は既に屡此伝記に出でた人物である。祖父は小林|玄端《げんたん》、父は玄瑞《げんずゐ》であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田|秀三《しうさん》の家を継ぎ、楊庵と改称した。その塩田氏に養はるゝに当つて、これが仮親となつたものは清川玄道※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]であつた。
塩田氏の家系より言へば、高祖文隣軒自敬、曾祖楊庵、祖父秀三、父楊庵である。遠祖は平の宗盛の臣塩田陸奥守|惟賢《これかた》で、八島の戦が敗れた時、宗盛の子を抱いて奥州に逃れたと伝へられてゐる。其裔自敬が始て三春に於て医を業とし、其子初代楊庵が江戸本石町に開業し、後お玉が池に移つた。楊庵の女婿を秀三と云ふ。三春の番匠佐藤某の子で、郷にあつては自敬に学び、江戸にあつては経を太田錦城に受け、医を初代楊庵に問うた。秀三は諸家の出入扶持を享けたが、就中《なかんづく》宗家の十五人扶持が最多かつた。小林玄瑞は此秀三の女婿となつて二世楊庵と称したのである。
良三真は天保八年に生れた。師柏軒を失つた時二十七歳であつた。
次は松田|敬順道夫《けいじゆんみちを》である。その出自、その入門等は既に記した。此には先づ一事の補叙すべきものがある。それは松田の渋江抽斎に於ける関係である。松田は籍を柏門に置きながら、抽斎の講筵に列せむことを願ひ、人を介して往いて聴いた。柏軒は聞いて大に怒《いか》つた。「抽斎の講を聴くは至極好い、しかし己の門人であつて己の友人に交を求めるのに、他人を介するとは何事だ」と云つたのである。松田は過を謝して師の怒を解くことを得た。抽斎の書を講ずるは、友と談ずるが如くであつた。難句に遭ふ毎に、起つて架上より数巻の書を抽き出し、対照して徒に示し、疑義は強て決することなく、研鑽の余地を留めて置いた。来聴者の悦服した所以である。
安政戊午に抽斎が歿し、万延庚辰に立石選銘の議が起つた。時に友人弟子中に二説があつた。一は津軽人をして銘せしめむと云ひ、一は故人の親友をして銘せしめむと云つたのである。柏軒等は後説を持して、遂に勝つた。既にして海保漁村の志銘は成つた。友人弟子等は是を読んで其大要の宜
前へ
次へ
全284ページ中253ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング