地に就いて本草を研究しようとするに、柏軒先生は病家に忙殺せられて、容易に採薬に往かなかつた。そこでわたくし共は枳園先生の採薬に随行した。わたくし共は抽斎先生をば畏敬したが、枳園先生となると頗《すこぶる》狎近《かふきん》の態度に出でた。しかし此人はわたくし共青年を儕輩として遇し、毫もわたくし共の不遜を咎めなかつた。枳園先生の本草は紙上の学問ではなかつたから、わたくし共が草木の実物に就いて難詰するに、毎《つね》に応答流るる如くであつた。想ふに是は相州に流浪し、山野を跋履した時、知見を広くした故であつただらう。」
 渋江氏は進んで柏軒の事を問うた。志村氏の答は下《しも》の如くであつた。

     その三百三十一

 志村氏は渋江氏に語つた。「わたくし(志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])は十四歳で柏軒先生の門に入つた。丁度安政四年で、十月に先生が将軍に謁見し、十二月に夫人狩谷氏を失つた年である。夫人は字を識り、書を善くしたが、平生は裁縫を事としてゐた。只客に酒を供する毎に、献酬の間善く飲み善く談じた。夫人の亡くなつた時、先生がかう云つた。可哀さうにお俊は己がお目見をしたお蔭で、酒を飲み過ぎて死期を早めたのだと云つた。是は十月の半以来賀客が絡繹として絶えなかつたので、夫人が日夜酒杯に親んだことを謂つたのである。勿論先生の戯謔《けぎやく》ではあるが、夫人は酒量があつたから、多少これがために病を重くしたかも知れない。」
「柏軒先生の嗜好としてわたくしの記憶してゐるのは、照葉狂言である。先生はわたくし共を中橋の佐野松《さのまつ》へつれて往くこと度々であつた。しかし此|癖好《へきかう》は恐くは源を抽斎先生に発したものであつたらしい。抽斎先生は佐野松の主な顧客であつた。」
「柏軒先生は金銭の事に疎かつた。豪邁の人であつた故であらう。秩禄二百俵、役料二百俵、合計四百俵の収入があつたのに、屡財政に艱《なや》むことがあつたらしい。此の如き時、先生は金を借りた。しかし期に至つて還すことをば怠らなかつた。夫人存命中は狩谷氏が貸主で、其後は側室お春さんの弟が貸主であつたやうである。お春さんの弟は浅草の穀屋であつた。」
「文久三年将軍家茂上洛の時、柏軒先生が随員の命を受けて、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船に乗ることを嫌つたのは、当時の人の皆知る所であつた。是議論が平生洋風を悪《にく》む処から発したことは勿論である。しかし先生は猶別に思ふ所があつたらしい。先生は将軍の※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船に乗るのを策の得たるものでないと謂《おも》つたのである。わたくしは先生がかう云つたのを聞いた。将軍の御上洛は陸路よりするを例とする。発著の間二十日を費す。是は※[#「門<困」、第4水準2−91−56]外《こんぐわい》の任にあるものが軽《かろ/″\》しく動かざるを示すのだ。朝廷で事の易きに慣れられて、ちよいと将軍を呼べと仰る、畏つて直に馳せ参ずることとなるのは宜しくない。此の如きは啻《たゞ》に将軍の威信を墜すのみではなく、朝権も亦随つて軽くなるのだと云つたのである。先生は言《こと》を左右に託して水路扈随を免れむことを謀つた。そのうち大奥より陸行の議が出て、事が寝《や》むことを得た。」
「わたくしが柏軒先生の一行に加へられたのは、松田|道夫《だうふ》がわたくしに水野閣老(忠精)と先生との間を調停せしめようと謀つたためであつた。先生は松田の言《こと》を納《い》れた。しかし先生はそれ程我藩主を畏れてはゐなかつた。或時先生は満を引いてかう云つた。なに、水野侯一人が政事をしてゐるのではないから、お前達は心配するな、それよりは酒でも飲めと云つたのである。」

     その三百三十二

 志村氏の渋江氏に語つた所の柏軒事蹟は未だ尽きない。「癸亥の年に将軍家茂に扈随して江戸を発した医官数人中、行伴《かうはん》の最多かつたのは柏軒先生である。大抵医官は一門人若くは一僮僕を有するに過ぎなかつたのに、独り先生の下には塩田良三とわたくし(志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])とがゐて、又若党一人、轎丁《けうてい》四人がゐた。それゆゑに途次に費す所も亦諸医官に倍※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2−86−65]《ばいし》した。」
「途上にある間も、京都に留まつてゐる間も、わたくしは塩田と議して業務を分掌した。塩田は主に出納の事に当り、わたくしは主に診療の事に当つたのである。」
「病人には二種類があつた。一は同行の旗本家人等で、一は駅々の民庶、入京後は洛中の市人である。然るに柏軒先生は毎旦将軍に謁し、退出後も亦頗多事であつたので、多くはわたくしが代つて脈を候《うかゞ》ひ方を処した。又淹京間は請に応じて往診するこ
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