前。則心在於天。而為五行之運行。吾之既受中気以生之後。則天在吾心。而為五事之主宰。嘗自号曰天心居士。」医学入門は明の李挺《りてい》の著す所で、古今の医説を集録し、二百八門を立てたものである。そして其陰陽五行説の本づく所は素問霊枢である。此書が明の虞博《ぐはく》の著した医学正伝と共に舶載せられた時、今大路《いまおほぢ》一|渓《けい》は正伝を取り、古林見宜《ふるばやしけんぎ》は入門を取つた。所謂李朱医学は此よりして盛に行はれた。李とは東垣李杲《とうゑんりかう》、朱とは丹渓朱震亨《たんけいしゆしんかう》である。入門には内傷に東垣、雑病に丹渓が採つてある。昌平学校は古林の東辟後に起した所の医黌の址ださうである。健斎は李挺の号であらうか。医学入門自序の印文に此二字が見えてゐる。
伊沢氏の学風は李朱医学の補血益気《ほけつえきき》に偏したものではなかつた。惟《たゞ》井上金峨の所謂「廃陰陽、排五行、去素霊諸家、直講張仲景書者」たることを欲せなかつたのである。
わたくしは此に一言せざるべからざる事がある。それは我家の医学である。吾王父|白仙綱浄《はくせんつなきよ》は嘗て藩学の医風に反抗して論争した。当時の津和野藩医官は上下悉く素問学者であつた。綱浄は独り五行配当の物理に背き、同僚の学風の実際に切実ならざるを論じ、張仲景の一書を以て立論の根拠とし、自ら「疾医某」と称して自家の立脚地を明にした。しかし綱浄は古典素問を排したのではなく、素問学の流弊を排したのであつた。尋《つい》で吾父は蘭医方に転じ、わたくしは輓近医学を修めたのである。
柏軒の治病法は概ね観聚方等に従つて方を処し、これに五六種の薬を配した。それゆゑ一方に十種以上の薬を調合するを例とした。是は明清医家の為す所に倣つたのである。観聚方は多紀桂山の著す所で、文化二年に刊行せられた。
柏軒の技が大に售《う》れて、侯伯の治を請ふものが多かつたことは上《かみ》に云つた如くである。渋江保さんは嘗てわたくしに柏軒と津軽家との関係を語つた。津軽家は順承《ゆきつぐ》の世に柏軒を招請し、承昭《つぐあき》も亦其薬を服した。柏軒の歿後に其後を襲《つ》いだものは塩田楊庵であつた。当時津軽家の中小姓に板橋清左衛門と云ふものがあつた。金五両三人扶持の小禄を食《は》み、常に弊衣を着てゐるのに、君命を受けてお玉が池へ薬取に往く時は、津軽家の上下紋服を借
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