が順養子として後《のち》を襲《つ》いだ。元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]は此年の武鑑奥医師の下《もと》に「多紀安良法眼、父安元、二百表、向柳原」と記してある。安元は柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]元胤《りうはんげんいん》である。元佶は医師子息の下に「多紀安常、父安良」と記してある。分家では※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭元堅《さいていげんけん》が此年二月十三日に歿して、子|雲従元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《うんじゆうげんえん》が嗣いだ。浅田|栗園《りつゑん》の輓詩がある。「杏林領袖漸塵糸。想見先生崛起時。学禁異端攘醜虜。術開正路泝軒岐。人帰黄土書徒貴。春満青郊鳥自悲。従是滔々天下者。中流砥柱更依誰。」わたくしの所蔵の丁巳の武鑑は、元堅の歿した二月の後に成つたもので、唯奥医師の下に「多紀安琢、父楽春院、二百表、元矢のくら」を載するのみである。安琢は元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]で、其父楽春院は元堅である。
松田氏に聞くに、柏軒が後に重用せられたのは、多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭と辻元冬嶺《つじもととうれい》との歿後に出でたためであつたと云ふ。冬嶺の事蹟は、わたくしは未だ詳《つまびらか》なるを知らない。しかしわたくしは冬嶺が安政三年八十歳、若くは四年八十一歳で歿したかと推測する。
何を以て謂《い》ふか。武鑑は安政三年に「辻元為春院法印、奥御医師、三十人扶持、下谷長者町」と書してゐるのが、最後の記載である。四年以後の武鑑には為春院《ゐしゆんゐん》の名を見ない。大沼枕山の同人集は辻元の詩二首を収めてゐる。第二編上に「自述」の詩がある。「懸車乞骨尋常事。百歳致身吾所期。欲与梅花立氷雪。鉄肝吾自耐支持。」第三編上に「今茲乙卯余年七十九、新正生※[#「齒+兒」、8巻−203−下−12]乃賦」の詩がある。「※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]々初日満天霞。梅柳渡江迎歳華。別有春風仙老至。耳毛添緑※[#「齒+兒」、8巻−203−下−13]生芽。」乙卯は安政二年で、冬嶺が七十九歳であつた。わたくしは此に拠つて其年歯を算した。同人集に従へば、冬嶺、名は※[#「山/松」、第
前へ
次へ
全567ページ中465ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング